2006.07.14

はてなへお引っ越し

はてなへ引っ越すことにしました。さすがにここ最近のトラブルはうざかった。
http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/
過去ログはそのうち移行します。写真の移動が面倒だすなあ。

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2006.06.16

銀座:ぴょんぴょん舎

時々行くバーの隣にいつのまにか盛岡冷麺の店が出来ていました。

その名も「ぴょんぴょん舎」!何か変な名前ですが、どうも盛岡では有名らしいです。わざわざ狙ってこの店に来ている人たちもいて、金曜の夜、しっかり並んでしまいました。並ぶの嫌いなんですが、たまに血迷ってやっちゃうんですよね。
さて、それでさっそく冷麺を注文しました。どーん。

まず麺とスープが違います。麺は普通焼き肉屋で出るようなのと比べて太くてコシがあるけどもっちりもしているすぐれもの、スープもうまみたっぷりのコクのあるものに仕上がってました。具材は普通なんですが、麺とスープが違うだけで、ラーメンみたいにこれ一食でいきます、みたいな感じになっていました。なかなかうまい。なるほど、これが盛岡冷麺なんですね。
7月以降はメニューも増えるようですし、並んでる人が減ってきたら再訪してみようと思います。


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2006.06.11

猫燈籠

猫燈籠

谷中墓地にて。まんまるにゃーん。起こすの悪いから遠くから撮りました。

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2006.05.13

日暮里:トンキング

JR日暮里駅に宣伝看板を見つけて、気になっていたトンキング。石焼き豚三段バラ専門店という初めて聞く売り文句にぐっと来てはいたものの、 韓国料理が食べたいときはいつも柳に行ってたので、二の足を踏んでいました。。。と、柳のことブログに書いてないですね。あまりに普通に来ているので意識してませんでした。
それはさておき、石焼き豚三段バラって?と思ったら、これでした。
鉄板焼きの板が、石焼きビビンバの鍋の石でできてるんですね。おもしろいのがごらんの通り、板が傾くことです。傾きで下になる方にキムチやもやしがおいてあって、傾けて豚バラの余分な脂が流れていってキムチともやしにしみこむんですね。この焼きキムチがおいしいんですよ!もうびっくり。そんで脂たっぷりの豚バラのかりっとなったやつをちょっきんちょっきんはさみで切ってもらって、この焼きキムチや大根スライスの酢の物といっしょに食べるんです。もお馬鹿ウマです。
ううん、柳とどっちに来るか悩んでしまうなあ。


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2006.05.12

Googleブック検索

Google Book Search(元Google Print)の日本語版が年内にサービス開始するようです。

このプログラムにはISBN(日本図書コード)を持つ書籍を発行している出版社であれば無償で参加できる。書籍のスキャン費用やGoogleブック検索への登録に関しても無償という。今回、パートナープログラムや書籍登録の仕組みが一通り整備されたことで、今後グーグルは出版社に対して参加を働きかけていく。
(略)
また、欧米で提供しているGoogle Book Searchでは出版社からだけでなく、いくつかの大学付属図書館からも著作権の切れた書籍を中心として提供を受けているが、日本では現在のところそうした計画はないという。
ITmediaニュースより。)

大学図書館が協力して、著作権切れの図書が提供されるとすんごくうれしいんですが、そこまではまだいってないようです。東大か京大か早稲田か慶応がどどーんと協力してくれたりするとうれしいんですが。あるいは国会図書館の近代デジタルライブラリー全面協力とか。無償でやってくれるんですから、積極的に参加して産学協同じゃーいとかのたまってほしいなあ。

あと個人的には、マンガのスキャンをやって、台詞など文字部分をテキスト化してくれたりすると、もう最高なんですが。

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2006.05.11

神田:みますや

神田:みますや

創業明治の老舗居酒屋、神田のみますやにようやっと行きました。有名店なので前から狙っていたのですが、なんやかんやで機会がなく、今日ようやく。授業が終わって打ち合わせをして、で、店に着いたのは18時15分。余裕だろうと思っていたら、予約含めてすでに満席でした。19時までなら大丈夫な席ありますよ、と言われ、まあそれでもと思ってたら、ちょうど席が空いて無事ゆっくり飲めました。つーか、18時過ぎで席が空くのか~。

老舗居酒屋だけど、しっかり現代の動向も押さえてありました。地酒・焼酎が充実してるんです。これがうれしかった。鶯谷の江戸創業の鍵屋も雰囲気いいし好きだし、台湾人の友だちを連れて行ったりしたこともあるくらいなんですが、酒がいまいちなんですよね。

お店の造りもすばらしかったですけど、何よりつまみがブラベストでした。どじょうやさくらにくが食べれます。馬刺しなんか思わず赤身(1,300円、だったっけ?)と霜降り(2,000円)両方頼んでしまいました。高いけど、ボリュームあったし、すげーうまかった。次回はさくら鍋かな。。。どじょうとかも食べれます。冷や奴が半丁どかんとでてきたり、牛の煮込みが牛皿(なつかし牛丼系のしっかりした具)だったりと、もう満足でした。
また行くぞ~。おー。

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2006.05.10

覆水を盆に帰すぞ八卦掌

八卦掌川柳第一弾。なんじゃそりゃ。でも歌訣ってそういうことだよね。それなら和歌にせんとだめか。

最初の頃は身体感覚がまるでなくって、正直なところ、走圏を直されても何となく分かったような感じでピンときてなくって、いろいろ試行錯誤していたんですが、最近は、足でかんだり、腰をのばしたり、肩の力をぬいたり、といった感覚がおぼろげながら感じるようになって、もちろんきちんと要求に応えた走圏はできてないんですが、遠藤老師に直されたときに、身体感覚の変化で修正を感じ取れるように少しはなってきたように思います。ちょっとは進歩?
また身体感覚がましになってきたことで、走圏をしていて身体内部からのフィードバックを実感できるようになり、これでずいぶん走圏が楽しくなってきました。最初の頃は単にきついだけ、で感覚の腑分けができてなかったので、走圏がイマイチ楽しくなかった。それが内部でつっぱったりふんばったりしてるのが分かるようになってきました。これって筋ができてきてるのかなあとか思うわけですが。いやふらつきますけど。ぶれますけど。ただこうした感覚があるいは間違ってるかもしれませんが、走圏をする楽しみの一つになります。身体との対話ってやつですかね。錬功を重ねると走圏が気持ちよくなってくるそうですので、ちょっと楽しみです。

それで、何で覆水を盆に帰すかというと、今日の練習で遠藤老師が走圏を次のようなたとえで説明してくださったんですね。走圏の際の力の加減についていえば、それは走圏は水をたたえた洗面器を両手で持ち運ぶようなものであるとの由。力が入ってなければ器は当然支えきれない。かといって力を込めすぎてがちがちになると器を安定させれず水をこぼしてしまう。つまり走圏では身体を安定させる以上の力は必要ない。安定が持続すれば気が蓄積され、やがてより力を込めれるようになると。力の強弱よりも持続が重要というわけです。
この支える力は端腰と堤肛でつくるわけですが、加えて足でかむ力もどうバランスをとるかという問題がありますし、確かに歩きながら一定して力を入れ続けるのは、ホントに難しいです。つか、まだ全然できねーです。
さて、気が蓄積されるのはどこかといえば丹田なわけで、つまり器が丹田のことで、水が気ということになります。じゃあその水はどこから器に注がれるか。これは上半身からぽたぽたとしずくのようにたまっていくのです。勢いよくかければ水は器から飛び出てこぼれますから、自然に重力に任せて流し込むのがよい。だから上半身の力は抜いてゆるめる必要があると。走圏の上鬆下緊の意はここにあるそうです。
このたとえは、もう超級分かりやすかったです。水と器というイメージもまたきれいだし。伝統的に相性いいですしね。まああくまでたとえであって、これを具体的にイメージしながら走圏をするというのはたぶん間違いかなあと思うんですが、そのあたりどうなんでしょう。イメージしちゃうと瞑想になっちゃうから、内を動かすことになっちゃわないかと思うわけです。外動内静が内家拳の基本ですもんね。まあたとえとして理解しておいて、実際に走圏をするときには、遠藤老師の言われる要求をひたすら実現すべく身体の声を虚心に聞くというのがよさそうです。イメージしながらだと、何かそれだけでやれちゃった気になりそうですもん。妄想癖あるからなあ、僕。
まあでも前々から、熊形走圏はプーさんがはちみつの壺を抱えてるような感じで、とかボケてましたが、あながち悪い発想ではなかったのかも。『タオのプーさん』 (amazon, bk1)て名著もありましたし。

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2006.05.06

渋谷:Belgo

銀座で見つけたベルギービールのお店の系列が渋谷にもあったので行ってきました。しかも時々行ってたマッサージ店のあるビルの地下でした。注意力ないなあ。
渋谷ベルギービール
それはともかくこのBelgoというお店、雰囲気よし、つまみよし、酒うましの三拍子。店員さんたちがホントに気持ちよい接客で、うまさ10倍です。銀座のお店もそうですが、プリペイド方式で、生ビール以外は自分で直接ビールを冷蔵庫から取り出してお金を支払うかたちになっています。いろんなビールがずらずらっと並んでるのを見れて、これはこれでなかなか楽しいです。価格はブラッセルズと同じくらいでしょうか。まあつまり安くはないわけですが、地酒や焼酎を飲むことを考えると、価格帯はそんなに違わないんで、結局ついつい飲んじゃいます。

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2006.05.05

銀座:自然式食堂餉餉

テレビで紹介されてたのは知っていたんですが、複数の知り合いから行ってみたという話を聞いたので、行ってみました自然式食堂餉餉ぐるなび検索トップとかいう張り紙がありました。流行ってるのは本当みたい。母体が永谷園だからか、経営はしっかりしてるんでしょうか、店舗によって料金が違います。場所代など考えれば価格に反映されてるのはかえって安心できるかもしれません。

けけ

惣菜食べ放題といった感じで、自然食っぽいイメージはあまりありませんでした。肉あるし、味付けも濃いめで油もしっかり使ってます。いいのかしらん? より多くの人に受け入れてもらうために、普通の総菜を意識したんだろうとは思いますが。ま、おいしかったけど。

自然食、ということでいえば麻布十番のキヨズキッチンの方がいかにもベジタリアンな料理ですね。実際野菜の味をしっかり味わえるのはキヨズキッチンの方に思えます。。。と、その時は思っていたんですが、あとで調べると、どうもそこに野菜を卸しているところはメモリーウォーターとか売ってるところだと知って、ちょっと引きました。まあ確かに料理はおいしかったけど、そんな特殊な水のせいじゃないだろー。うーん、あなたの身近に水商売

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2006.05.04

神と眼差し

黄金週間妄想落ち穂拾いの2。

神といっても、神様、のことではないです。いわゆる精神の神、つまり人間を構成する三大要素、精・気・神の神について少し考えてみます。神様と精神がどっちも神なのは、天人相関の思想によっているからで、自然界においてもっともすぐれて霊妙な存在/構成物である神様(まあ一神教的な神ではないわけで、だから構成物といってもよいかと)の、相応する人体における構成要素がもっともすぐれて霊妙な働きをする精神、なわけです。霊魂との関係はというと、たぶん出自は別の文化ではないかと思うのですが、魂魄、清らかで天に帰る魂と濁っていて地に帰る魄は、それぞれ神と精に対応していて、その間に気がある、という二重のランドスケープになっているのかしらん。ちょっとテキトーすぎますかね。
ともあれ、中国哲学における、近代的自我/意識/「僕」って何?の問題は僕にとってかなり最初からの問題で、そもそも大学院に進んだのはそれをやりたかったからなんですが、何故か道教研究に足を踏み入れ、迷いながらもいくつかアイテムをゲットしてまたクエストに再挑戦といった感があります。ま、実際、そのまま単純に玄学や宋学をやらなくてよかったと思ってます。おそらく道教を学ばなければ、西洋哲学の移し鏡にしか過ぎないような哲学っぽい議論しかできなかったでしょう。

ところで、問題は、ここに意と志を放り込むとどうなるのか。意は意識、志は意志、これが神、つまり精神とは別のものということになっています。近代的自我とかいうやつ(およびそれ以降の「僕ってなあに?」)だと意識がかなり重要なはずだけど、中国の身体地図では存外意というのは重要だけどあくまでサポートのようなもの。精神と霊魂は違うということになるんでしょうかね。とりあえず神は意よりも上位にある、というかレイヤーがどうも違います。
修養法では、「煉精化気」「煉気化神」「煉神還虚」とかいいます。精とは精液とかようするにどろどろとした生命力のエッセンスそのもの、可視的です。これを気に変換し、さらに神に変換し、自分の身体全ての物質/存在としての純度を高めていって、最終的に、道、つまり宇宙と一体となる。これが内丹と呼ばれる道教錬金術の一般的な考え方です。こうなると神というのも目には見えないが、何かしらの物質/存在と見なされていることはまあ間違いないところで、ぶっちゃければ神も気の一様態であるといったところでしょうか。
では意はというと、よく分からない。意念≒意識の使い方が修行において大事なのは確かですが、ではその意そのものが身体地図の中にどう位置づけてあるのか、ちょっと微妙なところです。意は心の作用ですから、心臓の気の働き?いやもっと重要な役目を果たしていますが。。。

まあそのへん、まだ勉強不足なわけですが、気になるのは、じゃあ結局、神って何か?ってことだったりします。はっと思ったのが、これがまた八卦掌の練習に際しての、李老師の説明振りです。単換掌という技を繰り出すときに、意念は常に下半身というか丹田においているが、神は技の出る方向、視線の先に向くんだといったようなお話をされました。食事の席で神とは何ですか、という更なる問いに対して、答えるのは難しいが、例えば、有名な書家の真筆とコピーとを見比べたとき、真筆には神が発せられているのを感じる、そういうものだといったようにお答えになりました。無茶な質問だったので、答えもまたはっきりしないのは仕方ないんですが、僕が注目したのは、技の説明でも書の説明でも、指先でどこかしら方向を示しつつ説明をされていたことです。そう、神、とは眼差し、なのです。では意は違うのかというと意念は何かしらもっと内部感覚的なもの、内を向いていて必ずしも視覚には頼ってない(ありありと見える方がよいことは確かでしょうけど)。神は外部に向かって発せられる視覚を強くともなう感覚と言えるのではないでしょうか。

してみると、神こそが、まさしく「僕」そのもの、近代的自我とか意識とかの根っこにあるもの、と言えるのではないかと思うのです。初源の眼差し。自我はその眼差しが自身をみつけるところからはじまります。ウロボロスの回転が自我/意識/心を生む。がそれは自己の内に囚われた意識。しっぽを離して解き放たれる一条の龍、その眼差しこそが、神、なのでしょうか。。。

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