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2003.09.30

“中国哲学”の誕生に立ち会う

近代デジタルライブラリーでは、国立国会図書館が所蔵する明治期に刊行された図書の全分野約16万冊を対象として著作権調査を行い、著作権保護期間が終了したもの、また、著作権者(あるいは著作権継承者)の許諾を得たものからデジタル化して公開しています。
このうち東洋哲学だけでも400点の書籍が電子化されており、知の近代化としての中国哲学の誕生を考える上で貴重な資料が、マウス数クリックで入手できます。おおすごい。例えば、哲学館(現:東洋大学、母校です)の講義録なども蔵書に含まれていて、当時の様子を伺うことができます。

中国学関連のデータベースでは、中国・台湾に大きく遅れをとっていた日本ですが、こういった他に真似の出来ない独自コンテンツを公開していけるわけで、研究者として積極的に利用していきたいもんです。

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2003.09.29

自費出版図書を検索するには

大学図書館などで所蔵していないような(つまりNACSIS Webcatではヒットしないような)、自費出版図書を検索・貸借できるのが、ホームページ自費出版図書館です。同サイトによれば約15,070点を検索できるそうです。
資料探しのために覚えておいて損はないかと思います。

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2003.09.28

アジアニュースのサイト

Mainichi INTERACTIVE アジアの目は、全国紙のサイトが運営しているアジア情報ページでは、他紙よりも後発だからかでしょうか、コンテンツも充実していますし、ニュースサイトとしてバランスがとれているようです。
言わずもがな、朝日のサイトは台湾情報が見当たらないですし、産経のサイトは中国よりも先に台湾の情報を載せています。まあどっちもどっちです。
ただ産経新聞はユニークです。なんたってアジア・関西って関西もひとまとめになってるんですから。確かに大阪や名古屋って日本というよりアジアって感じがぴったりするときも多々ありますね。日本のイメージ、特に都会ということになると、やっぱり東京ですし。

その他のアジア関係のニュースサイトへは、アジアニュース・リンクからどうぞ。

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2003.09.27

『ダブル・ビジョン』DVD発売

道教版セブンという宣伝で売り込まれたけど単館上映に終わった台湾映画(ハリウッド資本)、『ダブル・ビジョン』のDVDが発売されました。
cover
なかなか好みのB級映画です。日本のマンガやアニメが好きで道教に興味のある向きには、断然オススメです。一見噛み合わない条件を二つあげてるようですが、僕の周りに数人いますので、全国的にはけっこういるかもしれません。

なんで日本のマンガやアニメが好きな人におもしろいかというと、ハリウッド映画の影響よりも、モチーフとしては日本のサブカルチャーの影響が強いんですね。キャリアと地元警察の軋轢、ハイテク系新興宗教、謎の古代遺跡と秘文、なんてのは共通項ですが、ラスボスが何せほら、美少女ですから。これはハリウッド映画ではありえないでしょう?

詳しくは公式サイト(http://www.spe.co.jp/movie/worldcinema/doublevision/)をどうぞ。
公式サイトのレビューには、僕の先生が書いてます。上映時に売ってたパンフレットの解説文はどれもダメダメでした。いや最近の映画のパンフでまともな文章に出会う確率の方が圧倒的に少ないか。映画を見てるかもしらんけど、内容のある文章を書けるだけの教養はないんでしょうね。ひいき目でなく、先生のは読むとより映画を深く理解できます。とはいえネタバレで書いてるので、パンフには使えないですね。惜しい。

道教方面でのおもしろさといえば、犯罪動機が世界平和でも民族の自立でも、はたまた金や権力あるいは復讐のためでもなく、自らの不死の獲得だったあたり、実に道教的ですばらしいです。
あと、調査をする刑事たちが宗教者はあてにならないアカデミズムの権威に聞こうということで、中央研究院に向かうんですが、実情を知ってるとちょっと笑えます。宗教学者が実践者でもありうるのはいずこの世界でも同じであります。

音楽と見せ方にもっと凝っていたら、じゅうぶん大作になっていたと思います。素材もストーリーもすばらしかったです。日本のこの手の娯楽映画が脚本でつまずいてるのを考えると、何とももったいないです。

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2003.09.26

地域活性化と歴史学

日本では一時期、歴史学や考古学の学者による地方史の創出が流行しました。これは学者たちがマルクス主義の理念のもとに運動として展開したもので、いわば反体制的なものといえるでしょう。しかし地域活性という立場には、他方、その土地の歴史や伝統の掘り起こしによる観光資源の開発といった経済的な要請が現在でもあり、そういった活動を行っている政府外郭団体も存在します。

最近の台湾での地域活性化熱を見ると、こういった一世代前の日本の状況が重なってきます。現在台湾では観光資源の開発のために地域活性を振興しています。これは技術・経済立国ではいずれ中国に飲み込まれてしまうという危惧のもとに、文化立国へと政策を転換していることの反映でしょう。また地域活性の一環として盛んに地方史が作られていますが、そこには本土化といった民族主義により大陸中国との差異を明確にしようという政治的な意図があるわけです。しかし一方で膨大な歴史資料を片端から作っていくという中国で伝統的に行われていることのミニチュア版を思わせるところが興味深いです。

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2003.09.25

“気”のないフリして中国哲学

中国に哲学はない、なんてアカデミズムごりごりな発想以外認めない場合は、以下「思想」に読み替えてください。ここでは日常の用法で哲学を使ってます。

中国哲学は、気の哲学だとよく言われます。もっといえば、中国文化は気の文化です。ようするにどんな話の根底にも、“気”というものがあるわけで。では気ってなんだろう、となると、これが困ります。最大公約数的な答えは、気は気である、というものにしかならないんですね。

気については、中国哲学を考える上では、僕は気については触れない方がよい、これはNGワードである、と考えています。だってあらゆる事象に関わるかたちで遍在して最後はすべて気に還元されるということは、議論一般においては無視してもさしつかえないということになりませんか? 気を議論の対象にする場合は、気そのものの研究の場合だけでよいはずです。それ以外にも中国哲学には重要な問題がいっぱいあるはずです。


もちろん研究の主題として気を全面に出すことがおかしいというわけではないのです。僕が問題だなと感じるのは、テクストを翻訳するときに、しばしば無自覚に気という言葉が挿入されてしまったりすることです。確かに気という言葉を使うだけで、ずいぶん楽に翻訳できることはあるでしょう。しかしそれはやはり、安易に過ぎます。少なくとも議論のテーマが気でないなら、基本的に気という言葉は使うべきではないと思います。

さて僕なりにあえて定義すれば、気は「実在の最小単位」ということになるでしょうか。気とは実際にはどんな実体なのか、あるいは、そう理解されてきたか、といった問いはあまり効果的とは思えません。
気は説明概念にすぎないのではないでしょうか。自分が体験するありとあらゆる事象が実在することを照明してくれる、信じさせてくれる一つの便利な概念なのだ、と僕は考えます。

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2003.09.24

愛の中国語!

ここ数年のNHK中国語会話は、若者路線を徹底させてて、うれしいかぎりです。ちょっと昔は、フランス語会話の格差の激しいことったらなかったですから。

北京や上海の都会化がすすんで、恋愛ドラマを演出しても鑑賞に堪えるようになった現実の変化のおかげでしょうね。スバラシイ。
語学教育が若者重視なのは正しいと思いますし(逆に中高年から新たに学び始めようという人には別のメソッドでということになるのでは?)、興味のないことは話せないとなれば恋愛が最大公約数だと考えるのも間違ってない。まあ、貧乏くさくない中国なんて、て思うマニアな人もいるでしょうけど、僕は大歓迎です。

NHK外国語会話--GO!GO!50中国語会話をどうぞ。

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2003.09.23

IT紀要編集

大学等公的研究機関の紀要の出版は、媒体での出版コストは無視できないという事情はあるそうですから、ネットでの無償公開に踏み切るのは難しくないでしょう。紙CD-ROMで配るまでやるなら、一気にネットで、と考えるのは健全です。

一方で、学会の会報では、組織維持のための会員費とのバーターなどを考慮しなくてはいけないので、すんなりネットで公開という訳にはいかないかもしれませんが、ただコスト削減のために自分たちでDTPしたりすることは当たり前になるでしょう。またCD-ROM出版というのは、家内制手工業的にすることで、ずいぶんお安くできると思います。
こういったIT化は、研究全体に益するようになる、と考えます。

ここで編集者が考慮しておくとよいのは、仮に今そうでなくても、論文が電子データになる以上、将来的にはネットで公開されることを前提に、データを構築することです。そこまでを視野に入れて、外字の処理や文章の記述作法を組み込んで、執筆要領を作成したらよいかと思います。
(ただできれば、標準化されたものが欲しいです。日本中国学会公認!とかです。)
そうやって電子化された論文がネットで公開されるようになると、将来的には、XMLを利用した論文の相互リンクデータベースがネット上に出現するかもしれません。それはより充実した研究史の構築という、アカデミックな研究の基礎となる部分にかかる労力が自然と削減することにならないでしょうか。

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2003.09.22

科学少年のお店

東京駅八重洲北口で見つけたお店、ザ・スタディルームはすごく楽しいところです。携帯顕微鏡や望遠鏡、聴診器、ビーカーやフラスコなど実験器具等々、自然科学グッズが実用品からおもちゃまでいっぱいです。動物の指人形ぬいぐるみなんかもいー感じでした。

全国に店舗があるみたいです。JYUTAさんの紹介をどうぞ。

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2003.09.21

テキストクリティークとバザール方式

電子仏典利用者メーリングリストでの2001年2月の自分の発言について、今でも僕の考えは基本線では変わってないけど、実際にコラボレーションを実現させようとすると、まだまだ考えなきゃいけない問題はあります。
ただ明言しておきたいのは、中国学の伝統手法(文献学的研究)に価値を見出すのであれば、選び取るべき道は、閉じこもってテキストに耽溺するのではなく、ネットに踏み出して作業を開いていくことが、文献学の方法論の核を伝承することになるだろうということです。
学際的な方向性が打ち出せなくても、情報処理的なアプローチを通して文献学を再構築することで、現代的な評価を得ることができないものでしょうか。


大きな現実の困難としてあるのが、翻訳は研究業績とみなされない、という問題のようです。
誰がみなさいかといえば、それはまず文部科学省だそうで、そうなると職業研究者としては二の足を踏まざるをえない、よく聞く話ですし、ちょっと思い出せないけど何かの本にもそう書いてありました。
それこそ研究者間の合意で変えていける問題では?と思うんですが、そう話してそりゃ理想論だよと切り捨てられたこともあります。……うーん。

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2003.09.20

キャンバスを見渡すという読み方

いわゆる文脈を読むという読み方ができるかどうか、それがテキスト読解上達の大きな分水嶺の一つになることは疑いないかと思います。ただ、中国哲学の場合、文脈を読むというより、キャンパスを見渡すという感覚で読んだ方がよくわかることがあります。
哲学的な概念の構築は、具象的なもの、自然界の事象などを基礎として構築され、その概念が継承されていくに従いより抽象的なものとなっていくとモデル化できるでしょう(これは中国哲学にかぎった話ではないのかも)。それで漢字が表意文字だから、というわけではありませんが、概念が構築された後でも、元々の具象的なイメージがその解釈に強く影響している場合があります。その場合、意味の流れをつかむのではなく、言葉のイメージをつかんでいった方が、テキストの理解として整合性がとれることになります。

テキストを頭から読みはじめると同時に、白いキャンパスに個々のイメージを順々に配置していき、文末にたどりつくと一枚の絵ができあがる、そのようなイメージで読んでみる、そうすると時々うまくイメージできない部分が出てきたりすることがあります。おおむねそういったビジュアル化に失敗する部分は辞書的に正しく訳していたとしても、どこか誤読していると考えた方がよいわけです。

熟練の学者ともなれば、こんなこと無意識のうちに実践してるんだと思います。でも僕のような駆け出しには、こうして意識的にテキストをビジュアル化するやり方は有効なんです。というのもやはり普通にテキストを読むときには、辞書で単語の意味を調べて……と一語一句の意味を規定しつつ読むわけで、そうして言語化された目線をいったん切り替えないと、イメージはうかびあがってこないものです。
これは『荘子』の郭象注を少しばかり読んでいて、そう感じました。郭象の思想は形而上学的に高度な哲学が展開されていると評されますが、それでもやはり意味よりもイメージで読むと、わりあいすっきり読めました。思想家としてはもちろん彼に及ぶべくもないわけですが、それでも現代を生きる僕たちの方が、近代を経験しているだけに、より頭の中は言語化され抽象化されているのでしょう。だからその余計な、というとまさに荘子的なのだけども、言葉を落としつつ読むということに意味があるんだと思います。

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2003.09.19

南インド料理店『ダバ・インディア』

最近、仕事の帰りに日比谷から歩いて銀座をかすめ、八重洲方面に抜けるなんてことをやっていたら見つけました。

スパイスが効いてるのか、韓国料理ほど辛くもないのに汗がたくさん出てきました。おいしかったです。

詳しくは、南インド『ダバ・インディア』[エスニック]All About Japan(1/2)をどうぞ。僕も行く前に読んでおけばよかったです。

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2003.09.18

訓読否定の漢文入門

「漢文入門」と銘打ってる通りに、教えているのは漢文訓読であるのに、訓読は最終的には捨て去るものです、と荘子や禅の悟りかと思わせるのが、小川環樹・西田太一著『漢文入門』です。初版1957年。

訓読廃止議論はすでにさかのぼること江戸時代、荻生徂徠からと言われてますが、訓読派vs音読派対立の歴史は明治大正にも、戦後にも、そして現在でも繰り返されてるわけですね。

繰り返すのはともかくとして(いいのかな)、アカデミックな研究の場、特に論文を書くときにも、この問題が継続してるのは、どうなんでしょう。もはや訓読の経験は教養として等しく共有されてるものではない以上、答えは見えてると思うのですが。論文作法(ライティングってやつ)が中国哲学の分野で客観的に確立されず、職人芸的に伝承されてきてるからでしょう。
ええ最近はその伝承すら……といった嘆きはよく聞きます。あ、僕が怒られてるのか。

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2003.09.17

思想史に踏み出さない勇気

現在の中国哲学は、大半が思想史的な問題を取り扱っているだけで、現代社会を論じることを止めてしまっている、こう考えているのは僕だけではないでしょう。

現代の(西洋)哲学は思想史研究(思想家研究だってまあいいけど)をしてるだけでなくて、現代を問題にした議論をしてますし、そもそも伝統的な漢学は当時にあって社会に向き合ってました。本来的な出自からしても、「哲学」という明治以降に新たに名付けた名前からしても、中国哲学は現代を問題とすることがその性格に含まれるはずなんですが、現実の中国哲学(者)はそうではないようです。

現代思想の潮流からすると、それでいいのかもしれません。ポストモダン以降の僕たちは思想史研究しかない、のかもしれません。

でも、それで本当にいいんでしょうか。『道徳を基礎づける』のあとがきの中で、中島隆博さんが言っていることに僕はむしろ共感します。

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2003.09.16

先立つ方法論の不幸は許されるのか?

方法論懇話会の合宿に参加してきました。三浦半島で一泊二日、夜は飲んで海で青春。僕自身発表はしなかったので(というか原稿遅らせてます、すいません、すいません)、ほとんど茶々を入れるように討論にまざってました。

今回は別の研究会でもご一緒してる仲間の発表があったので、僕自身が専門としてる中国哲学の方法論的問題についても、思うところあって有意義でした。

新しい歴史学の方法論というのは、これまで支配的だった読み方、つまり研究者の視点そのものを問題視するというのが基本にあるわけですが、これが学問として成り立つためには、そもそもの研究対象であるテキストを読んでいることが大前提になるわけです。
しかし中国哲学(というか中国学一般)では、その大前提が成り立っているのか? といった方法論以前のところから議論しなくてはいけない気がします。

たとえば、老荘がどう読まれてきたかという思想史の問題を設定しようにも、これまでの研究のほとんどは、六朝期の著名な注釈書が材料でした。それ以降の時代については、最近唐宋の注釈書が研究対象になってきましたが、これでようやく1000年前、明清の注釈書についてはまだまだです。
僕の専門の道教については、基本文献はほとんど白文、句読点すらないし活字本もない状況です。翻訳にしたって、六朝期のメジャーなテキストが数点ほど、といった次第。

つまり、物理的に読まれていない、のです。であっても、どう読むかという問題は、そこに研究者がいるかぎりなくならない? 僕もそう思います。しかし、方法論で逡巡して、きちんと存在すらできていない支配的な読み方を批判する時間があったら、文献一点でも二点でも翻刻した方が有益だ、という意見があれば、これは相当強力な反論ではないでしょうか。
リソースは人的時間的にかぎられているのですから。
方法論的な言説が、研究史批判の立場に立つ以上(つまり僕一人が楽しくてやってる、とうそぶくわけではないんだから)、その分野全体の向上のための経済効率は考慮しなくてはいけないはずです。
このへん、中国学より基礎となるテキストの分量が圧倒的に少ない、日本史や西洋史とはずいぶん状況が違うと思います。

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