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2003.09.16

先立つ方法論の不幸は許されるのか?

方法論懇話会の合宿に参加してきました。三浦半島で一泊二日、夜は飲んで海で青春。僕自身発表はしなかったので(というか原稿遅らせてます、すいません、すいません)、ほとんど茶々を入れるように討論にまざってました。

今回は別の研究会でもご一緒してる仲間の発表があったので、僕自身が専門としてる中国哲学の方法論的問題についても、思うところあって有意義でした。

新しい歴史学の方法論というのは、これまで支配的だった読み方、つまり研究者の視点そのものを問題視するというのが基本にあるわけですが、これが学問として成り立つためには、そもそもの研究対象であるテキストを読んでいることが大前提になるわけです。
しかし中国哲学(というか中国学一般)では、その大前提が成り立っているのか? といった方法論以前のところから議論しなくてはいけない気がします。

たとえば、老荘がどう読まれてきたかという思想史の問題を設定しようにも、これまでの研究のほとんどは、六朝期の著名な注釈書が材料でした。それ以降の時代については、最近唐宋の注釈書が研究対象になってきましたが、これでようやく1000年前、明清の注釈書についてはまだまだです。
僕の専門の道教については、基本文献はほとんど白文、句読点すらないし活字本もない状況です。翻訳にしたって、六朝期のメジャーなテキストが数点ほど、といった次第。

つまり、物理的に読まれていない、のです。であっても、どう読むかという問題は、そこに研究者がいるかぎりなくならない? 僕もそう思います。しかし、方法論で逡巡して、きちんと存在すらできていない支配的な読み方を批判する時間があったら、文献一点でも二点でも翻刻した方が有益だ、という意見があれば、これは相当強力な反論ではないでしょうか。
リソースは人的時間的にかぎられているのですから。
方法論的な言説が、研究史批判の立場に立つ以上(つまり僕一人が楽しくてやってる、とうそぶくわけではないんだから)、その分野全体の向上のための経済効率は考慮しなくてはいけないはずです。
このへん、中国学より基礎となるテキストの分量が圧倒的に少ない、日本史や西洋史とはずいぶん状況が違うと思います。

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