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2003.09.25

“気”のないフリして中国哲学

中国に哲学はない、なんてアカデミズムごりごりな発想以外認めない場合は、以下「思想」に読み替えてください。ここでは日常の用法で哲学を使ってます。

中国哲学は、気の哲学だとよく言われます。もっといえば、中国文化は気の文化です。ようするにどんな話の根底にも、“気”というものがあるわけで。では気ってなんだろう、となると、これが困ります。最大公約数的な答えは、気は気である、というものにしかならないんですね。

気については、中国哲学を考える上では、僕は気については触れない方がよい、これはNGワードである、と考えています。だってあらゆる事象に関わるかたちで遍在して最後はすべて気に還元されるということは、議論一般においては無視してもさしつかえないということになりませんか? 気を議論の対象にする場合は、気そのものの研究の場合だけでよいはずです。それ以外にも中国哲学には重要な問題がいっぱいあるはずです。


もちろん研究の主題として気を全面に出すことがおかしいというわけではないのです。僕が問題だなと感じるのは、テクストを翻訳するときに、しばしば無自覚に気という言葉が挿入されてしまったりすることです。確かに気という言葉を使うだけで、ずいぶん楽に翻訳できることはあるでしょう。しかしそれはやはり、安易に過ぎます。少なくとも議論のテーマが気でないなら、基本的に気という言葉は使うべきではないと思います。

さて僕なりにあえて定義すれば、気は「実在の最小単位」ということになるでしょうか。気とは実際にはどんな実体なのか、あるいは、そう理解されてきたか、といった問いはあまり効果的とは思えません。
気は説明概念にすぎないのではないでしょうか。自分が体験するありとあらゆる事象が実在することを照明してくれる、信じさせてくれる一つの便利な概念なのだ、と僕は考えます。

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