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2003.09.20

キャンバスを見渡すという読み方

いわゆる文脈を読むという読み方ができるかどうか、それがテキスト読解上達の大きな分水嶺の一つになることは疑いないかと思います。ただ、中国哲学の場合、文脈を読むというより、キャンパスを見渡すという感覚で読んだ方がよくわかることがあります。
哲学的な概念の構築は、具象的なもの、自然界の事象などを基礎として構築され、その概念が継承されていくに従いより抽象的なものとなっていくとモデル化できるでしょう(これは中国哲学にかぎった話ではないのかも)。それで漢字が表意文字だから、というわけではありませんが、概念が構築された後でも、元々の具象的なイメージがその解釈に強く影響している場合があります。その場合、意味の流れをつかむのではなく、言葉のイメージをつかんでいった方が、テキストの理解として整合性がとれることになります。

テキストを頭から読みはじめると同時に、白いキャンパスに個々のイメージを順々に配置していき、文末にたどりつくと一枚の絵ができあがる、そのようなイメージで読んでみる、そうすると時々うまくイメージできない部分が出てきたりすることがあります。おおむねそういったビジュアル化に失敗する部分は辞書的に正しく訳していたとしても、どこか誤読していると考えた方がよいわけです。

熟練の学者ともなれば、こんなこと無意識のうちに実践してるんだと思います。でも僕のような駆け出しには、こうして意識的にテキストをビジュアル化するやり方は有効なんです。というのもやはり普通にテキストを読むときには、辞書で単語の意味を調べて……と一語一句の意味を規定しつつ読むわけで、そうして言語化された目線をいったん切り替えないと、イメージはうかびあがってこないものです。
これは『荘子』の郭象注を少しばかり読んでいて、そう感じました。郭象の思想は形而上学的に高度な哲学が展開されていると評されますが、それでもやはり意味よりもイメージで読むと、わりあいすっきり読めました。思想家としてはもちろん彼に及ぶべくもないわけですが、それでも現代を生きる僕たちの方が、近代を経験しているだけに、より頭の中は言語化され抽象化されているのでしょう。だからその余計な、というとまさに荘子的なのだけども、言葉を落としつつ読むということに意味があるんだと思います。

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