« ベルギーチョコ『ドゥバイヨル』 | トップページ | ソフトクリーム『ベビーヨーグルト』 »

2004.11.17

中国哲学がNGなら中国文学もNGでないの?

最近思い直して、意図的に「中国哲学」という言葉を使ったりしています。

中国「哲学」じゃない、中国思想だという考え方は一般的になりつつあるようです。
曰く、中国には「哲学」がない、なぜなら「哲学」という言葉自体が明治の日本で造られたことからも明かなように、それはヨーロッパに特殊の知のあり方だからだ、こうした近代的な陥穽を回避して幅広い中国固有の知的状況を明らかにする実践的な研究をしなくてはいけない、だから中国「思想」なのである云々。
philosophyでなく、history of ideas つまり思想史研究なのだというわけです。確かにこれはこれでもっともです。僕もやっている道教研究も思想史研究になるでしょう。
しかしどうにもポスモダちっくなこういう考え方には、表明されている態度とは別の要素があるのではないか、最近そう考えるようになったのです。
実際のところは、東浩紀さんが言うようにここ10年20年の状況で、哲学以外の社会学や人類学や経済学が「思想」としての発言力を持つようになってきたので、そうしたいくつかの学をとりまとめて「思想」といった方が現実にあってるから、なんでしょう。中国哲学業界についても、台湾の学界でも、やはり最近は「思想」という言葉を使っていますし、これは日本に固有の問題というわけではないです。

しかし、ともう一歩踏み込んで考えてみましょう。例えば、じゃあどうして中国文学はOKなんでしょう?とか。「文学」という言葉自体は確かに歴史があって、それこそ『論語』とかにたどれますが、その本来の指し示す範囲は人文諸科学全般に近いものがあります。だから文学部という呼称があるわけで。
だから、中国「文学」というとき、その「文学」は、「哲学」と同様に明治にLiteratureの訳として造られた言葉ですよね。中国「哲学」を「思想」だというのであれば、中国「文学」は「文芸」でなくてはならないのではないか、そう思います。
してみると、思想か哲学といった問題は表向きの議論であって、実は他に本音があるんじゃないか、そう思えてきます。だって、今の文学研究の中には、映画や演劇も入ってます。そのように意味するところが書き換えられてよいのなら、哲学の意味するところを書き換えても不都合はなかったはずです。

考えてみるに、哲学と文学には、アカデミズムにおける研究としての意味と、実社会における実践としての意味とがあります。批判はされたことがあるとはいえ、現代においては、文学研究者に実践、たとえば小説を書くことは社会責任として求められません。しかし、哲学は文学ほどには明快に分離されず、哲学の研究と実践とはしばしば混同され、アカデミズムであっても実践していることが求められがちと言えるでしょう。
で、中国哲学はというと、すでに誰かしら指摘しているように、研究者たちは戦後実践することを放棄して、実証的な歴史研究それのみでよしとするような政治的態度を取る方が大勢になったという経緯があります。だから実際のところは、「哲学」という言葉が重荷なんじゃないか、研究だけですませてしまいたい、とどこかで思ってるんじゃないでしょうか。西洋哲学のほうで、実態がどうだかは永井均さんが批判しているとおりかもしれませんが、古代から近代までの西洋哲学の研究者の中から、実践として「哲学」している人がそれなりに世に出ている現実と中国「思想」業界を引き比べれば、まあ答えは明らかではないかと思えてきます。

|

« ベルギーチョコ『ドゥバイヨル』 | トップページ | ソフトクリーム『ベビーヨーグルト』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/2086/5629906

この記事へのトラックバック一覧です: 中国哲学がNGなら中国文学もNGでないの?:

« ベルギーチョコ『ドゥバイヨル』 | トップページ | ソフトクリーム『ベビーヨーグルト』 »