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2004.11.10

永井均『私・今・そして神』

永井均さんの『私・今・そして神―開闢の哲学』 (amazon, bk1)を通勤の友にしてます。基本的に一ファンとして読んでます。お会いしたことはないですが、同じような問いを自分よりはるかに上のレベルで問い続けている先輩として、尊敬してますので。僕が研究の道に進むにあたっての道しるべの一つなのです。

私を意識する私を意識する私……という無限後退の問題について、僕が学部生の頃に考えた回答は、「ウロボロスの眼差し」というやつで、こうした無限後退の実態は、自分のしっぽをおいかけて堂々巡りをしている視線がただそこにあるだけ、つまりそこには、無限後退を意識する私、しかいない、というものでした。永井さんの本でいえば、無限後退している「私」は「としての「私」」として一般化されており、「端的な「私」」との間には断絶がある、ということになるでしょう。僕はそこまで考えて、納得してしまっていたのですが、こうして永井さんの本を読むとその考えにはまだまだ広がりがあることが分かります。もう少し考えてみようかな。
それに、無限後退の問題は『莊子』でも扱われてますし、中国哲学として考えてみたい気もします。
他方、最近では、学術研究の地政学的な観点から、永井さんの本の端々に出てくる学者としての発言を範としていろいろ考えたりするようにもなってます。とはいえ、あくまで大学教授としての立場をすでにもち、それにともなう職務もこなしてる上での発言であることを前提として割り引きつつ、ですが。うう、僕もずいぶんすれたもんです。
永井さんの指摘されてる西洋哲学業界の哲学か研究かどっちやねん問題は、自分が属している中国哲学業界ではもっと切実で構造的な問題ですし。マスタークラスのせんせい方でこうした問題意識を持たれてる方、少なくないはずなのに、状況はあまり改善されてないように思えます。考えさせられます。

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