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2005.07.02

「校訂という行為と著作権との関わり」メモ

漢情研の著作権講座の三回目が25日に開催されました。当日は僕は別のシンポジウムで報告していたので参加できず残念至極だったんです(だって懇親会でのフランクな議論まで参加してなんぼですもん)。秋に出る会報での詳しい報告が今から楽しみです。会員BBSでの下準備の議論は追っかけていましたが、どうせ出れないからいいやと特に発言せずに終わったもんで、忘れる前に思ったことをメモしておきます。

さて、メルマガ7月1日号によると以下のような展開だったようです。

まず始めに秋山陽一郎氏による「中国学で言うところの校訂という行為」 についての概論が説明されました。これは本会BBSでの議論を踏まえ、校訂と いう行為が実は複数の概念と用語に分かれること、また実際の事例を踏まえ つつ、校訂には高度な学術的な創造性が含まれる場合もあることなどを中心 に述べられました。

中国学以外の古典学・文献学の場合と比べてみないと何とも言えませんが、一般に「校訂」と呼ばれる行為を中国学では細分化しているということそれ自体が、中国学が校訂を重視した知の体系であることを意味します。そもそも「創造性」があるかどうかという問いは独創性を重んじる近代的な(いや「現代」的かな)価値判断で、真理に奉仕する場合は誰でもそこに辿り着ける(もちろん最初から可能性のない人間はいることも認めているけど)ことを前提とするので、「創造性」は決して重要な価値じゃないと思います。もちろん後の時代からみると、校訂の伝統は個々の学者が独自の解釈を行ってきた歴史なのだけど、当事者の感覚はどうだったのか。このあたり、「経典」を校訂していた近代以前と、「史料」を校訂するようになった近代以降では違ってくるでしょう。もちろんこの二つの態度は全面的に切り替わった訳ではなくって、現在でも儒教経典の校訂と小説戯曲の校訂では校訂者の文献に対する姿勢が違ってるように思えます。
次に石岡克俊氏より、「校訂作業の法的取扱い」と題する講演が行われま した。その中で、「校訂権とは、【校訂をする権利】ではなく、【校訂者の権利】である」とする基本的定義が確認され、従来の出版物における校訂者 の権利の事例を挙げ、従来の事例はあくまで民法で言うところの「私的自治」 の範囲に過ぎないこと、そして「校訂作業の法的評価」として、学術的成果 の利用に関する自主的ルールの必要性を説明していただきました。

「巨人の肩に乗る」ことは洋の東西を問わず学問において基本姿勢であるわけで、そうした立場と著作権という経済的な要請がぶつかっている不幸というのも考えないといけないのでしょう。名和小太郎『ディジタル著作権』 (amazon, bk1)などでそうした議論がありました。
利用に関する議論をすすめていくと、評価の問題も大切になってくるでしょう。校訂には原典解釈の作業も含まれますから、つきつめていくと翻訳になるわけで、学術的評価の兼用には校訂だけでなくその延長として翻訳までを射程に入れて議論すべきで、そうなると「独創的」な論文と翻訳とでは翻訳の評価が低い現状が問題となります。西洋系の人文学では確実にそのようですが(何かの本の対談で詠んだけど、その本が発掘できてません。とほほ)、中国学ではどうなんでしょう。校訂から翻訳までを含めた注釈稿については、学術的作業として難易度が高いと考えてるマスタークラスの先生は何人もいらっしゃるでしょうけど、現実には本にでもまとめないかぎり業績としてきちんとカウントされないように思えます。小分けに学術雑誌に投稿したって、論文としてカウントしないですもんね。
僕なんかはそこそこの翻訳でもいいから、びしばし公刊される状況があった方が業界全体の発展にはいいと思うんですけども。でも現状では業績にならないんで、結局、研究者が学術的成果を「趣味」としてやっているという、なんだか奇妙な状況です。有職者はいいですが、求職者ではつらいもんがあります。僕も兼業研究者ですんで、どっち優先かというと、結局論文です。プロジェクト杉田玄白のような趣味でここまでやってる人たちを見るにつけ、研究者の端くれとしてこれでええんかおいと思ってしまうんですが。
と、何かずれてきたところでどっとはらい。

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コメント

「そもそも「創造性」があるかどうかという問いは独創性を重んじる近代的な(いや「現代」的かな)価値判断」という点に関して。石岡さんは著作権が近代市民社会を前提としている点をきちんと指摘した上で、議論をしていたように思います。私自身は当日、出たり入ったりしてたので、ちゃんとした議論はできてないんですが、最後の方でコメントを求められたときに「著作権の前提であるモダン社会についてはよくわかるが、中国学や仏教学というのは、前近代との連続性の上に成り立っているので、それを無視することはできない」みたいなことをちょっとしゃべりました。まあ、どううけとられたのかはわからんのですが、プレモダンを不当に無視する態度が、今日の混乱を招いているという点は否めないように思います。

投稿: もろ | 2005.07.20 00:13

>石岡さんは著作権が近代市民社会を前提としている点をきちんと指摘した上で、議論をしていたように思います。

おお、ますます会報が待ち遠しいです。

>プレモダンを不当に無視する態度が、今日の混乱を招いているという点は否めないように思います。

まさしく。実態はプレモダンな実践をしながら、モダンな方法によっていると誤認しているような、自己認識と現実態のずれが問題の根源にあるわけで、プレモダンを止め(たことにす)ることよりも、そうした自己像(セルフ)のぶれ自体を解消していくことが、正しい?アカデミックな研究なのではないかと思うわけです。著作権問題も工学的な方法論の議論ですよね。

投稿: ぱーどれ | 2005.07.20 12:31

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