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2005.09.17

方法論懇話会合宿第一日目

方法論懇話会の合宿に参加してきました。長野だぞ、小諸だぞ、温泉だぞ、峠のかまめしだぞ。いやもう、自分は発表しないで茶々入れてるだけなので、気が引けるけど、楽して勉強できてる感じ。おいおい。
というわけで、1日目はデリダについて、もろさん、北條さん、稲城さんから報告。デリダはまともに読んだことがない、がその思想について喧伝されていることについては知らないでもない、のだが当人の著作とそれを論じている本はどうにも難解のように見えて敬遠していた、ので、個人的にはこれをきっかけにと思った次第。だいたい、デリダはどうも知らずに使って/わされているようですし。うう、不勉強だのう。

さて、もろさんは仏教研究でのデリダの使われ方についての報告でした。日本では比較思想で論じられるのに対し、欧米では仏教研究の方法として参考にされているそうです。タオとデリダというのもあるらしく、自分の専門でデリダを援用するときの参考になりそう。いつだよ、それ。
他方、比較思想はおいといて、日本の仏教プロパー研究者の場合、実は読んでるくせに論文や授業でおくびにも出さない人がいる、という話になりました。これ、うちの業界もそうですね。授業で諸子百家を友達のように親しげに論評し、論文もだいたい似たような調子の先生が、ぽろっと『金枝篇』に触れたりして、うげげとか思ったことあります。いやまあ最先端ではないわけですが、意外と読んでる。興味深いのはそれが論文なり授業なりに反映されないことです。授業に関してはそれでもいいと思うんですが、論文であまり触れない、というか業界全般で引用する作法があまり見受けられないのはどうしてなのか、昔はむかついてたんですが、今はむしろそのこと自体を研究史的に位置づけてみたいと思うようになってます。うう歳くったの。

授業においてどうして方法論に関わることを言わなくてよいと考えることができるのか、僕は中国武術の修行階梯なり職人の徒弟的教授法なりを念頭に置けば、それなりに納得できるんじゃないかと思います。アメリカの大学では方法論それ自体の講座があり、修論かなんかは提示された複数の方法論うちどれかを選択してそれに従って書くそうで、きっちりシステム化されてますが、日本ではそれがない。そういう状況で、言語論的転回のような危険な認識を初学者にいきなりぶちかましてよいのか、という疑問が生じます。なにしろ、後述するようデリダですら、真理/実在への欲望は止めがたく、また普通その欲望こそが人を研究へと駆り立てるのであれば、研究者になろうなんて業深いのに比べて遙かに薄い欲望しかない普通の人を言語論的転回で回しちゃったら、歴史どころか歴史学まで不在にされちゃうんじゃないでしょうか。中国武術や職人の世界では最初はその意味も分かることなく型だけの練習をつづけ、そのうち練習自体が好きになるくらいはまってきてほどよく功夫もたまってきたところで、実はな、と秘伝を教えられ、世界がばしっと変わってしまう。こんな感じで歴史学も学ぶというのはどうでしょう。最初は歴史は実在するのだと実証研究に埋没させ、博士後期あたりで、実はなごにょごにょ、えー、がびーん、と言語論的転回をかまされて、一介の歴史好きが一気に歴史学徒へ変貌する、とか。この方が、僕自身の生理には合います。だって歴史は確かに実在するって言いたいですよね、やっぱり。無理ながまんはせず、言ってしまってから、いやあ勢いにまかせて言っちゃったけど、実はね~と言い訳する方がすっきりするなあ。

北條さんの報告は、歴史学業界におけるデリダについて。まず引用されていたデリダのインタビュー(現代思想のデリダ追悼号)が萌え~。いやいや。真理と言葉にすると、真理はそこから逃げてしまうのに、語らずにはいられないと告白するデリダ先生はかっこええです。ぐっと来ますねえ。インタビューちゃんと読もう。ってまだ読んでないのかよ。
しかし、北條さんが注目して引用しているデリダの発言部分、『老子』第一章まんまのところもあり、老荘や禅と親和性高いな~と思いました。比較思想で取り上げたくなっちゃうよね、こうもぴったりだと。
あと、日本の歴史学業界において言語論的転回を経ても変化がなく、こうした議論を「生産的」でないと批判をするのはいかがなものかという話が出ました。うーん、北條さんの憤りに賛同する一方、「生産的」でないと言いたくなる気持ちもよく分かります。だって理屈の上では、歴史は物語りだと言い切ってしまえますが、でも僕たち人間だものって嫌いなくせにギャグでは使えるみつを節、やはり誰だって実在として「歴史」を感じ取り語りたいと思ってしまうのでしょう。デリダですら、語っちゃうんですもん。
あと「生産的」かどうかという議論は、僕は非常に大切だと思われます。なんで人文学が斜陽産業に追い込まれつつあるのかといえば、ここに答えれてないからでしょう。非生産的で何が悪いのか、と開き直ることは理論上は許されるし、僕もむしろ開き直りたいですが、現実にはそうはいかない。研究理論にとっては外部はないかブラックボックスでも、当の研究者自身にとっては外部は厳然と存在するのです。首しめられたら研究できんでしょ、という単純な議論を戦略的に行うことも、僕は方法論だと思うのですが。故に人文工学みたいなことを考えるわけで。

稲城さんの発表は柄谷行人のデリダ評というアクロバティックなもの。『探究』でデリダに関係するところをどしどし抜粋されたレジュメが用意されたのですが、正直、よく分からない。柄谷さんは「哲学」のための「哲学」をやりたいのね、というのは分かりました。フェチですな。稲城さんは再評価したいそうで、それはそれで日本思想史のテーマ(戦後思想史?)として意義深いかもしれませんが、しかし今研究してる僕らにとって方法上役立つことがあるかというと、まああんまりないでしょうね。東浩紀さんが言うように、思想の言葉としての力は哲学→社会学・人類学→経済学といった感じで変遷してきているなか、哲学の中だけでぐるぐる回って楽しいかね、と思うのが正直なところ。そういうのは哲学者がその業界内でのコアな問題として好きなだけやってればいいんで、業界外の人間にはあまり必要ない作業なのではないかと。まあ今回は稲城さん自身の語りがあまりなかったので、こういう距離感を感じたのかもしれません。

夜の懇親会では、某問題や某問題について熱く語り合いましたが、政治問題なのでここでは書きません。けっこうおもしろいモデル(というか思考実験、ていうか大ボラ)を思いついたんですが。明日に続く。


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方法論懇話会の例会が終わって、1週間が過ぎました。 最近、奥さんからも「あなたの記憶はたいてい不確かだ」と批判されているので、そろそろ感想を書かねばと思います。 すでに、メンバーの師さんや野村さんのブログが公開されていますが、今回は第6クール・テーマ〈記憶〉の総括と、第7クール・テーマ〈デリダ〉の関連報告の2本立て。 1日目は後者で、師さん・稲城さん・私の報告。 師さんは、仏教学におけるデリダ研究につ�... [続きを読む]

受信: 2005.09.26 20:38

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