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2005.10.08

日本中国学会第57回大会一日目

北海道大学開催の日中学会大会に参加してきました。といっても、自分が報告する訳でもなく、仕事ついでに観光しようという腹づもりで、堂々と(ってわけにもいかんのですが)有休をいただいてきた次第。
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ちょっと遠回りしてイチョウ並木を通って会場に向かった後は、途中本を買いに行ってたり、居眠りしたり、内職したり、と全部聞いていた訳ではなかったのですが、とりあえず哲学・思想部会にずっといました。天気もそうですが質疑応答の方も荒れたり荒れなかったりとけっこう大変だったみたいです(他人事)。

個人的にいちばん気になったのは、渋谷せんせいの「 『荀子』の性説の再検討」でした。これが意外にトンデモ。『荀子』で論じられている「性」の問題について、郭店楚簡『性自命出』などを参考に再検討し、朱子学的な「理」によって理解される前の『荀子』の本来の「性」の思想を明らかにするという、方向性だけを聞いていればまっとうなものに思えていたのですが。。。
渋谷せんせいによれば、どうも古代の中国人が、抽象概念や分類概念を持っておらず、「性」という言葉は「形而下の質料のような存在」として独立に存在する気、いわば「性気」を意味する、そうです。人間の構成要素を考える際にそのような「性気」の存在を想定してよいんだとか。『荀子』正名篇の有名な一節、「性之好悪喜怒哀楽、謂之情」(性の好悪喜怒哀楽のことは、情と言う)がその根拠となるそうで。えー。何でそう論理的でない誤読ができるんでしょうか。例えば喜怒哀楽については、確かにそれぞれが気として存在するという考え方はあります。しかし、じゃあ喜怒哀楽の四つの気以外に「情」気なんてものがあると古代中国人は考えていたというんでしょうか。違うでしょう。「情」は具体的な人間の喜怒哀楽の気の働きの総体を指して言った言葉、いわば抽象的な分析概念です。古代中国人にそうしたメタな発想ができなかったというのはちょっと古代中国人をなめすぎ。渋谷せんせいの考え方だと、人間にはその身体や精神を構成するもろもろの気以外に「人」気というものを独立して内包していることになります。そんな想定、意味ありますか?合理性がまるでないと思います。あるいは、きちんとデザインされた身体観や宇宙観を想定せず、場当たり的に文献を読まれているのかもしれません。
ところどころ妙に西洋哲学的な言い回しをしていたのにも気になりました。例えば、ぽろっと、人間の質量/質料?を考えると「性気」が蔵されるぐらいの余裕はあるんじゃないか、とコメントされたりしてましたね。つまりは、朱子学的解釈を退けて、その代替として「西洋哲学」的な解剖学的解釈を採用しているだけで、こりゃまた古いネタが出てきたな、と。それでは結局『荀子』そのものには到達できない(うまくやればホントにできるかどうかはまた別のお話)わけで、結局は看板に偽りあり、だと思います。

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