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2005.10.31

仮想化コンピュータは“禅”の境地

ハッキングを禅にたとえるとか、ハッキングを通じて悟りを開くとか、その手の物言いが半分以上が内輪の冗談だってのは、わかれよぉ、バカだなまったく。そんな話をマジに受けるやつがあるかい。何事もつきつめれば、それなりの悟りや哲学に達することもある。ハッキングだってそれはそうだろう。ハッキングは長時間没頭するし、ひらめきが大事だし、そういう禅や悟りに通じる部分があるのは確かだけど、でもハックと聞いてひれふさなきゃいけないなんてことはないんだ。ちなみに英語で「zen」と言ったら、単に「コツ」っていう意味でもあるんだってのは当然知ってる……よねぇ? 日本で中間管理職が「五輪の書」を読んで乱世を生き抜く戦略を学ぼうとしたりするのも、ご存じだよねえ。そんなのを真面目に受け取ったってしょうがないっしょ?
山形浩生「Hackについて――およびそこにあらわれた、哀れな Asshole 野郎山形浩生の各種無知と愚かな物言い」 1995年 より。

しかし、冗談を実行する人たちがいる以上、それはやはり本気ではないかと思うのです。

 日本HP マーケティング統括本部 インフラストラクチュアマーケティング本部 本部長清水博氏は、「仮想化技術の発展によって次世代インフラストラクチャ=仮想化というレベルにまで高まっている」と仮想化技術の発展を評価。「禅を英語で説明する際に“no mind”と表現することがあるが、何もないところに物を作り出す仮想化は、まさに禅の境地に似ている。HPの仮想化技術は、禅の境地といえるだろう」と語った。

てなプレゼンをですね、

via http://image.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0510/28/xen_tom.jpg
お寺の境内で「Xen」の説明をするヒューレット・パッカード 研究所 プラットフォーム仮想化グループ 主席研究員 トム・クリスティン氏

と禅寺の境内でやったそうです。すごいぞ日本HP。

ITmedia エンタープライズ:HPの仮想化技術は“禅”の境地?
より。

中港台のデータベースを利用する必要から、複数言語版のWindowsを嫌々併用しないといけない機会がある僕らの業界にしてみると、こういう技術が発展していくのはうれしいです。

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2005.10.29

東京タワー

映画を見た後、ヒルズから歩いて東京タワーまで。どんなデートや。
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2005.10.17

エビ・イカ・豚レバーで炒三鮮

新橋の『香味』、一ヶ月しないうちに再訪してしまいました。
帰宅途中にちょっとよれるところがうれしい。
さて、ピータン豆腐はもちろん注文。それからマコモ筍の炒めと前に気になっていた炒三鮮を注文です。台湾でよく見かけるバージョンは、エビ・イカ・豚レバーの三点セット。海鮮三種じゃねえのかよとつっこみたくもなりますが、でもこれがうまいんですね。エビがぷりぷり、イカがしこしこ、レバーがとろとろ。うーん、はまる味です。で、また肉圓を頼んで、〆は排骨丼を。まさに丼飯というボリュームで、この排骨はがまたうまい。ちゃんと骨付きだったし。
またまた満足してお店を後にしたのでした。

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2005.10.16

魯迅と八卦掌

八卦掌についての学術論文はあるのだろうか、と探してみたら日本には1本(via 雑誌記事索引、その後MAGAZINEPLUSでも同様の結果)、中国には237本(via 中国期刊全文数据库)、台湾には17本(via 遠距離服務系統)という結果になりました。もちろんこれは「八卦掌」という単語で検索しただけなので、関連人名や書名、技名、異称別称などで探せばもう少し増えると思います。

で、まあ日本の論文から見るかと思って大学図書館でコピーしてきたのが、標記の「魯迅と八卦掌」(渡辺宏明、法政大学教養部紀要103号、1998年、pp.237~244)です。内容は魯迅の作品で登場人物が八卦掌を練習する記述のあるものをとりあげ、太極拳と誤訳した日本語訳などを挙げつつ、八卦掌の簡単な紹介をし、実は魯迅が何の気なしに取り上げたのではなく八卦掌の知識があって作中に書いたことを登場人物の名前と八卦掌の実在の使い手の名前との関連性を挙げて論じたものでした。僕は現代文学詳しくないんですが、老舎も中国武術を習っていたとかで、民国期の知識人と中国武術というテーマもちょっとおもしろそうです。
日本語で書かれた八卦掌関係の資料は、標記の論文でも参考にしている『武術』などの雑誌記事の他は、そう多くもなく、参考文献とするには検証が必要かも知れません。とりあえず入手できるものはがんばってみますが。
別にその必要に迫られているわけでもないのですが、学術研究として八卦掌に取り組む場合、(1)八卦掌について書かれた文献の解釈か、(2)八卦掌の伝承者へのインタビューのどちらかしかないわけですが(いやまあ(3)生東洋医学や生理学的アプローチもありますが、これは。。。まあ文系の僕には無理ということで)、(2)のようなフィールドワークは僕自身現在習っているのでその過程の中で機会を見つけてやればいいかと思う一方、個人的な興味は(1)の方にあります。最初に習う熊形の走圏があまりに内丹的なので、思想的な影響があるとおもしろいな~と思ってるのです。標記論文でも董海川祖師(でいいのかしら?)が道教の「転天尊」なる修行法に触発されて八卦掌を編み出したと書かれていましたし。このあたりからも広げてみようかな。

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2005.10.14

南無紅豆麺包仏

mixiでmonodoiさんから谷中に妙法童子という神様を祀っている祠があると教えてもらいました。はいこれ。
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どうもお寺が経営しているっぽい保育園の門神として祀られているようです。祠には「妙法童子」「神通之力」と双聯がありました。
最初にmonodoiさんや掲示板(9/18投稿分)の写真ではバイキンマンだけだったので、確かに、パン屋の職業神よりは疫神を祀る方が圧倒的に正しいからそれは当然でしょうと思っていました。どうぞ園児を病気からお守りください、と祀るわけですね。しかし自分で確認したところ、ちゃんとアンパンマンも看板としてかかっている訳です。これはいったいどういうことなのか。
そうです、よくよく考えれば、彼の神は単にパン屋の職業神にとどまる存在ではなかったのです。その説話を参照すれば分かるように、その核心となっているのは餓えた者に対して自らの身体(というか頭部)を与える行為、つまり「捨身」です。この行為は釈迦の前世の説話として語られ、その後仏教者たちによって捨身供養として確立されていきます。そう、アンパンマンは「愛」と「勇気」だけを友としてひたすら「捨身」を続ける仏、仮にその名前を紅豆麺包仏としておきましょうか、その仏教の神格が、パン屋の職業神と習合した存在だったのです。がーん、知らなかった。これでお寺の側で看板に掲げられていたことも納得できます。釈迦やアンパンマンのような仏の心をもって他者につくすような大人に育ってほしい、そういう願いが込められていたんですねえ。
ちなみに仏教の神格としてアンパンマンをみた場合、これがまた実に特徴的です。通常仏教系の神格は頭部が増えるパターンが多いです。十一面観音とか、まあそんなの。ところがこの場合むしろ無面とでもいいましょうか、頭部がないということが形象のもっとも大きな特徴となります(え、かじられてるだけじゃ?と思った人はやなせたかしさんの絵本を参照のこと)。これは仏教美術史上の一大事件かもしれません。このまま信仰が定着していくことが望まれます。

南無紅豆麺包仏、善哉、善哉。

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2005.10.09

日本中国学会第57回大会二日目

学会二日目。朝、クラーク博士の胸像を写真にとってから、会場へ向かいました。
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午前の研究発表では、松村せんせいの「「碑学」のメタファー」が興味深かったです。阮元-康有爲-魯迅を取り上げ、碑文研究とは現状の文献研究をより「オリジナル」なものの研究を通じて乗り越えることを目指すもので、それはナショナルな政治運動のメタファーなのだというものでした。質疑では京都産業大学の小林せんせい(このお方か?)が、「すべての碑文研究が政治的メタファーなんですか?」というコメントをされました。つまり学術的興味があるから碑文研究をしたのであって、政治的な信条からそういった研究をしたわけではないだろう、という批判かと思いました。これに対して、東大の藤井せんせいが「伝統を資源に政治的主張をする行為は当時よく見られた」と助け船を。「伝統の創造」というやつで、政治改革・国家改造を喧伝するにあたって、自らの主張が中国古来の伝統思想にもとづくものだ、とする主張は当時の知識人がよく使う手でした。というか、より古きを持ち出すことで現行の正統とは別の権威を打ち立てようとするこうした語り方自体は洋の東西今昔を問わず見られます。例えばマルクス主義歴史学と日本の考古学のマッチングなんてのもそうなのかなあ。小林せんせいの視点は非常に重要なのですが、じゃあ魯迅を論じる際には彼の政治性は問題にしないのかというと全然そうではなくて、彼の文学は芸術であると同時に政治だったのは前提なわけで、じゃあ小説家はアリで学者はナシってどういう基準?ということになるでしょう。学術研究と政治を両立させてしまえるのもまた自明のこと(それが望ましいかどうかはともかく)なので、学問と政治についてもっと論じられてもいいのではと思います。この角度はそのまま現在の日本の学界状況まで引っ張ってこれるでしょうし。
あと発表自体は途中から少し聞いただけですが、中尾せんせいの「梁漱溟の憲政論」の質疑で、中尾せんせいが「中国の現代農村を梁漱溟の思想で変えるんだ」みたいな趣旨の発言をされ、ダメな中国人に中国文化の神髄を教えてやるのだ的発想がまだ生き残ってるのかと思いました。まあでも欧米の文化人類学者がインフォーマント側に入れ込んで政治運動をしちゃうみたいなもんで、それって知識人の癖なんでしょうか。昔はこんなん不純や~と泣いてたもんですが、最近はこうした傾向自体を研究史としてきちんと位置づけねばという気になってきました。中国学研究でなく中国学者研究といったところでしょうか。今僕たちが行っている中国学研究が先人達の営為の後を継いで行われているのであれば、朱子や江戸の漢学者の言動を研究をすることと、現代の中国学者の言動を研究することとの間に、はたして決定的な差があるのでしょうか。1万年後の研究者から見れば、さして違わないはずですし。

午後のシンポジウムは、「北の都の〈幻灯事件〉――図像・映像による中国探索」と題した、ビジュアルイメージを論じる「受け」狙いの発表、というよりも興行、でした。会場けっこうバカ受け。凝ったパワポのプレゼンやら映画のワンシーンを切り取って見せてやら、文章でその楽しさは伝えづらく、是非ともflashアニメで公開してほしいです。
「革命映画」や「雷峰」が取り上げられたことについてでしょうか、「新しさを狙っているワリに、逆にレトロを感じ」た方もいたようです。確かにネタとしては二階堂さんや千田さんから5年以上前に聞かされていたもので、今さら、という意識もあって当然かと思いますが、むしろネタとして楽しんでいたものを堂々と天下の日本中国学会でやってのけたところを高く評価しなくてはいかんのでは、と思います。マスタークラスの域に達しつつある人に、仲間を背中から撃つようなことをしてほしくないんですが。
しかし確かに、位置付けがやや中途半端な感があるにはありました。楽しいプレゼンで通すなら一般公開までを企画してもっと仕込んで欲しかったですし(そのこと自体が学界のあり方を問うことになるでしょう)、現状の研究動向への異議申し立てをするならもうすこし哲学研究や文学研究など主流のディシプリンとの接続について論じて欲しかったです(実際、十分に既存の文献研究と連続性を認めうると思いましたし)。

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2005.10.08

日本中国学会第57回大会一日目

北海道大学開催の日中学会大会に参加してきました。といっても、自分が報告する訳でもなく、仕事ついでに観光しようという腹づもりで、堂々と(ってわけにもいかんのですが)有休をいただいてきた次第。
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ちょっと遠回りしてイチョウ並木を通って会場に向かった後は、途中本を買いに行ってたり、居眠りしたり、内職したり、と全部聞いていた訳ではなかったのですが、とりあえず哲学・思想部会にずっといました。天気もそうですが質疑応答の方も荒れたり荒れなかったりとけっこう大変だったみたいです(他人事)。

個人的にいちばん気になったのは、渋谷せんせいの「 『荀子』の性説の再検討」でした。これが意外にトンデモ。『荀子』で論じられている「性」の問題について、郭店楚簡『性自命出』などを参考に再検討し、朱子学的な「理」によって理解される前の『荀子』の本来の「性」の思想を明らかにするという、方向性だけを聞いていればまっとうなものに思えていたのですが。。。
渋谷せんせいによれば、どうも古代の中国人が、抽象概念や分類概念を持っておらず、「性」という言葉は「形而下の質料のような存在」として独立に存在する気、いわば「性気」を意味する、そうです。人間の構成要素を考える際にそのような「性気」の存在を想定してよいんだとか。『荀子』正名篇の有名な一節、「性之好悪喜怒哀楽、謂之情」(性の好悪喜怒哀楽のことは、情と言う)がその根拠となるそうで。えー。何でそう論理的でない誤読ができるんでしょうか。例えば喜怒哀楽については、確かにそれぞれが気として存在するという考え方はあります。しかし、じゃあ喜怒哀楽の四つの気以外に「情」気なんてものがあると古代中国人は考えていたというんでしょうか。違うでしょう。「情」は具体的な人間の喜怒哀楽の気の働きの総体を指して言った言葉、いわば抽象的な分析概念です。古代中国人にそうしたメタな発想ができなかったというのはちょっと古代中国人をなめすぎ。渋谷せんせいの考え方だと、人間にはその身体や精神を構成するもろもろの気以外に「人」気というものを独立して内包していることになります。そんな想定、意味ありますか?合理性がまるでないと思います。あるいは、きちんとデザインされた身体観や宇宙観を想定せず、場当たり的に文献を読まれているのかもしれません。
ところどころ妙に西洋哲学的な言い回しをしていたのにも気になりました。例えば、ぽろっと、人間の質量/質料?を考えると「性気」が蔵されるぐらいの余裕はあるんじゃないか、とコメントされたりしてましたね。つまりは、朱子学的解釈を退けて、その代替として「西洋哲学」的な解剖学的解釈を採用しているだけで、こりゃまた古いネタが出てきたな、と。それでは結局『荀子』そのものには到達できない(うまくやればホントにできるかどうかはまた別のお話)わけで、結局は看板に偽りあり、だと思います。

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2005.10.07

マスプロの極北、雪印パーラー

朝大急ぎで院紀要の論文を提出し、どたばたして事務の方に迷惑をかけて恐縮至極だったわけですが、とにかくそれからその足でそのまま羽田空港に向かい、一路北海道へ。明日からの学会にそなえて、今日は札幌観光をして鋭気を養いました。北海道には子供の頃に一度、仕事の出張で一度、今度が三度目です。札幌は二回目です。
まずは雪印パーラーで、ジャンボパフェを。。。
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といきたかったんですが、さすがにそれは無理でおとなしく「ロイヤルスペシャルバニラアイスクリーム」を使ったパフェやチーズケーキを食べました。
うーん、確かにおいしいことはおいしかったのですが、何か違和感が残りました。ミルク感が突出してるんですよね。そこは本物。だけど全体の出来としてはマスプロダクトなんですよね。ちょっと不思議な感覚でした。最近は、キハチソフトとかパティスリークイーンアリスみたいなところで気軽に手作りっぽいのが食べれるので、アイスクリームジャンキー的には物足りなく感じてしまったのかもしれません。

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2005.10.05

時色の町 萩

萩市観光協会が「時色の町 萩」と称して観光ポータルサイトを作ってるんですが、これが思ったよりセンスがよくてびっくりしてます。やるじゃん。
なんでも10月には「萩・竹灯路物語」なる城下町の街並みを利用したライトアップイベントをやるようで、これまた存外にセンスよさそう。これまでさんざんなことやってくれてたのに(笠山の自然ぶっこわしたりとか、マリーナ作ったりとか頭の悪い成金趣味丸出しの事業)、どうしたんでしょう。遅ればせながら歴史的な文化財を利用する文化経済学的手法に目覚めたのでしょうか。まあ問題はあれ、つぶして道路を舗装するよりはいいですが、もう少し全体を見渡したプランニングが望まれます。どうせこれ以上は発展しないんだから、アホな上昇志向は捨てて、如何に後世に文化を伝えるかという使命感を持っていただきたいものです。そのための観光行政という位置付けはまったく正しいと思います。

何でわざわざ地元の観光情報をチェックしてるかというと、特段ノスタルジックになったわけでもなく、たまたま同僚の祖父だか祖母だかが萩出身で、その関係で法事に行くついでに観光してくるといろいろ探してたらこんなん見つけたと教えてくれた次第です。地元の情報ってあんまり検索してなかったけど、けっこうあるもんですね。つい自分もいろいろ見てしまいました。
あ、そうそう、ハチクロに登場してた故郷のライブカメラ、にもありました。

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