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2005.11.23

じゅすへるの子孫にはなれんでしょ

何故ベストを尽くさないのか〜! 違った。『奇談』を見たのです。名作妖怪ハンターシリーズの「生命の木」(諸星大二郎『妖怪ハンター地の巻』 (amazon, bk1)所収)が原作です。原作者インタビューや隠れキリシタンの概説など充実したパンフレットといい、原作リスペクトを感じられるものでしたが、やはり原作に付け足した要素がうまく整合性をもって繋がっていないのが僕も気になりました。

一番残念だったのは、最後、主人公が大学の屋上で独白するシーンで、書き割りの風景以上に安っぽく安易な戦争批判、文明批判をやらかしてしまったことでした。じゅすへるの子孫には今更なれんでしょうに。歴史や神話は現在を忘れるためのファンタジーではないし、そうしてはいけないのです。確かに文系へたれ院生のせりふとしてのリアリティはありますが。えー。いやいや、でも位置づけとしてはこれが同時に作品のメッセージであるかのように受け取れるし、パンフレットを読む限り監督もそう原作を読んでいたっぽいです。しかし、諸星大二郎の原作はそんなメッセージ性なんてのに回収できるほど浅いものではないです。そう読み解くこともできるという可能性はじゅうぶんにはらんでいるし、そう解釈できるでしょうが、それは原作同様に観客に委ねて欲しかったです。解釈の出来ない異界/物語との邂逅が原作の最大の魅力であり、人は不可解故に魅了されるのです。第一、諸星作品では異界/物語はむしろ普通の人間を疎外、いや取り殺しさえする怖ろしい存在として描かれることの方が多い。おそらく監督もそれは感覚として分かっているので、主人公に稗田はあそこで見たものが全てだと言ったと語らせ、更に1シーン、稗田礼二郎が町中で重太とすれ違うところで本当に映画が終わります。

しかし個人的には更にその奥の1シーンがあって欲しかった。
というのも原作にない要素として主人公をはじめとする一連の神隠し現象があるのですが、原作「生命の木」で語られている物語の範囲内では、いくらその対象が知恵の未発達な子供であってさえもそもそもがあだんの子である人間の子供が連れて行かれる可能性は論理的にあり得ないことになります。
でも、「生命の木」を妖怪ハンターの世界全体に位置づければ、整合的に解釈できるように思えます。というのも妖怪ハンターには花咲爺シリーズのような生命の木をめぐる他の物語があり、そこでは生命の木をめぐる邪悪な存在が描かれています。そう、この物語はじゅすへるの一族の物語を偽装して、生命の木を利用して「エサ」集めをしていた何者かが背後にいて、離れの住人では食料に十分でなく定期的に神隠しを行って食糧不足を改善していたのです。しかしそれも巣が水没するために、他に移動するべく今回の奇跡を仕組んだ、これはそんな悪意の物語であったという解釈をすることで、神隠し現象が不自然ではなくなるのではないでしょうか。
したがって映画の最後に登場するべきは重太ではなく、ぱらいそに行ったはずの白木みのる演ずるよはねでなくてはなりません。再びいんへるのをともなって彼(ら)は日本の違うところに現れる、といったようなシーンでしょう。これがあれば映画独自の付け足しである神隠しの要素が次なる物語につながる可能性として位置づけられるのにと思った次第です。
ということで、是非次は花咲爺の話を映画化してください。正直、京極堂シリーズなんかどうでもいいので。

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