« 許地山の道教研究について | トップページ | 老子41章と八卦掌 »

2006.02.28

老子21章と八卦掌

~書きかけ~

2006年1月~2月の李老師の講習会で、中国哲学の研究をしていますと一応控え目に言ったところ、李老師から読んで価値ある古典として示されたのが『老子』と『易筋経』でした。前者は思想的な価値、後者は実践的な価値を認められていました。どちらも八卦掌の立場から注釈を書かれている最中だそうで、先に易筋経の方から仕上げて出版を考えておられるとか。おおう、一日千秋で待つしかありますまい。実際、八卦掌だけでなく、一般に中国武術ではこの二書の影響は大きく、道仏混淆の一例としても興味深いものなのです。
そんな事情とは関係なく、講習会の中で李老師は何度か『老子』の言葉を引用されましたので、それを以下紹介します(李先生による引用は下線部のみ)。

下線部の箇所については、補注として、(A)後漢の五斗米道によって作られたとされる『想爾注』、(B)六朝期の夭折の天才王弼の注釈、の二つを挙げました。本文にも異同がないではない(特に『想爾注』)ですが、まあそこは普通のやつを。なお、道氣社の電子版工具書を参考にしました。

なお以下の文章は僕の個人的な解釈が多分に含まれており、李老師の言葉を正確に反映している訳ではありません。当たり前のことですが、ここにお断りしておきます。

孔德之容,惟道是從。道之為物,惟恍惟惚。惚兮恍兮,其中有象。恍兮惚兮,其中有物。窈兮冥兮,其中有精。其精甚真,其中有信。自古及今,其名不去,以閱眾甫。吾何以知眾甫之狀哉?以此。 (第21章)


恍たり惚たり、其の中物有り[1]。窈たり冥たり、其の中精有り[2]。其の精甚だ真にして、其の中信有り[3]。

[1]
(B)「無形始物を以て、成物に繋げず。萬物以て始まり以て成るに、其の然る所以を知らず。」(以無形始物、不繋成物。萬物以始以成、而不知其所以然。)

[2]
(A)「大除中也。有道精分之與萬物。萬物精共一本。其精甚眞。生死之官也。精其眞。當寶之也。」
(B)「窈冥、深遠之歎。深遠不可得而見、然而萬物由之。其可得見以定其真。」

[3]
(A)「古仙士寶精以生。今人失精以死。大信也。」
(B)「信、信驗也。物反窈冥、則真精之極得、萬物之性定。」

この一句は、講習会終了後、食事をしながらいろいろと質問させていただいていたときに、李老師が引かれたものです。正直、この句を何故引かれたのか分からず、さらに尋ねると、一通り字句の説明をされた後、言葉に出来るような道は本当の道ではないと言うよね、と老子第一章「道可道、非常道」を引かれました。
おそらく李老師の真意は、八卦掌の最終的な目的におかれる「道」というものは、本来言語化できないものだからあれこれ聞いたり考えたりするより、ともかく練習しなさいと。練功が本物になれば「信」じられるようになるからね、ということだったのではないでしょうか。

|

« 許地山の道教研究について | トップページ | 老子41章と八卦掌 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/2086/8872234

この記事へのトラックバック一覧です: 老子21章と八卦掌:

» 老子41章と八卦掌 [Under the Hazymoon]
さて、講習会での老子トークの続きです。最終日、ちょっと遅れて行ったので、お話その [続きを読む]

受信: 2006.03.03 08:07

« 許地山の道教研究について | トップページ | 老子41章と八卦掌 »