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2006.02.06

月9『西遊記』は活劇成分不足

VAIOの予約録画プログラムがエラーを起こして今回は見損ねてしまったのですが、月9『西遊記』、思ったよりもよい感じです。原作をないがしろにしている、といった類の批判は、こうした古典作品に対してはとりわけ意味のないものでしょう。『西遊記』自体、『大唐西域記』原作と言えなくもないわけですし、マジメに仏法を求めて印度に行った玄奘さんのことを思えば、『西遊記』自体がすでに冒瀆ですよ。。。と野暮なことを言ってもはじまらないわけで。八犬士が現代の高校生だって、孫權がむちぷりのねーちゃんだって、まあそこは問題ではないのです。くだらないっちゃそうですが、そもそもが娯楽だったものに、高尚さを認めているのは後代の読み手の解釈ですし、ベタな二次創作をやってる方が、むしろ創作のかたちとしては正統なはずです。

研究者はつい高尚な方に向かいたがるので、こうした二次創作をくさしたりすることが多く、それはアカデミックな態度ではあるけれど、物語をつむぐ本来的な態度ではないのだ、と僕は思います。いや本来的でなくってもそれがアカデミズムの仕事なのだ、と分かってやるのはいいんですけどね。後ろから撃ったりせずもっと盛り上げればいいのに、と思うんですよね。すそ野が広がらないと山は崩れてしまうというのに。もっと褒めようよ月9『西遊記』!

個人的には、ベタな啖呵をきる悟空はかっこよく撮られていて、最初はぞぞ気がしたのですが、二度三度見ているうちに慣れてきて、慣れてくるとまあまあぐっとくるものがあります。一行のベタかつコミカルなやりとりも爆笑とまではいかないですが、なかなか楽しい。正面切って正論を言う、これはお話の世界では大切だと思うんですけどね。
しかし、正直なところ、月9『西遊記』には大きな難点があって、それは何かといえば、活劇成分の不足、なんですね。SMAPの一員で踊れるのに、なんだかもっさりとしか動かない悟空。沙悟浄がいちばんましなのが悲しいかぎりです。アクションが主体でないのは、先週だかで、さあ最後の決戦だ!というところであっさり老子に悪役が連れてかれたりして、みんなずっこけるみたいなオチがあることからも明らかなんですが、そうしたオチをつけるにしたって、話の構成はきっちり毎回、トラブルに遭遇→悪人に陥れられる→一念発起→悪人の退治→めでたしめでたしといった基本形を踏襲してるわけで、悪人との闘争が物語を支える背骨であるように作ってしまってるわけです。じゃあその闘争を支えるものはといえば、それはアクションに他ならない訳で、本当は強い者がギャグをやりドジを踏むといった風でないと、最後のかっこいい啖呵がまるで生きてこないでしょう。で、残念なことに「本当は強い」というところをほとんど画で見せてくれてないんです。アクションシーンのまあしょぼいことしょぼいこと。身体的な強さをもって精神の強さを表現するのはお話のお約束だと思うんですけどね。。。役者の問題というよりも、演出の問題に思えます。せっかく香取悟空かっこいいのになあ。スケボーっぽい筋斗雲で飛ぶ様もいけてるになあ。たいして強くない悟空という設定でいくなら、物語の展開を少し変えるかしないとかみわないんじゃないかと。ベタを生かそうと思えば足回りはしっかりつくりこまなきゃ、と思います。

もっとも、そんなにベタやりたいんなら、月9なんだし恋愛ものでやってくれ~と思ったりします。これで最後2回ぐらいでいきなり現代にタイムスリップして、三蔵と悟空の恋愛ドラマが展開されて終わったりしたら、個人的にはすっごく評価します。いっそそこまではっちゃけてくださーい。

が、活劇成分の補充をしたいなと思いつつも、このクールでいちばんはまってるのは、『時効警察』のアソクミねーさんの少女マンガちっくな演技だったりする次第です。

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