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2006.05.13

日暮里:トンキング

JR日暮里駅に宣伝看板を見つけて、気になっていたトンキング。石焼き豚三段バラ専門店という初めて聞く売り文句にぐっと来てはいたものの、 韓国料理が食べたいときはいつも柳に行ってたので、二の足を踏んでいました。。。と、柳のことブログに書いてないですね。あまりに普通に来ているので意識してませんでした。
それはさておき、石焼き豚三段バラって?と思ったら、これでした。
鉄板焼きの板が、石焼きビビンバの鍋の石でできてるんですね。おもしろいのがごらんの通り、板が傾くことです。傾きで下になる方にキムチやもやしがおいてあって、傾けて豚バラの余分な脂が流れていってキムチともやしにしみこむんですね。この焼きキムチがおいしいんですよ!もうびっくり。そんで脂たっぷりの豚バラのかりっとなったやつをちょっきんちょっきんはさみで切ってもらって、この焼きキムチや大根スライスの酢の物といっしょに食べるんです。もお馬鹿ウマです。
ううん、柳とどっちに来るか悩んでしまうなあ。


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2006.05.12

Googleブック検索

Google Book Search(元Google Print)の日本語版が年内にサービス開始するようです。

このプログラムにはISBN(日本図書コード)を持つ書籍を発行している出版社であれば無償で参加できる。書籍のスキャン費用やGoogleブック検索への登録に関しても無償という。今回、パートナープログラムや書籍登録の仕組みが一通り整備されたことで、今後グーグルは出版社に対して参加を働きかけていく。
(略)
また、欧米で提供しているGoogle Book Searchでは出版社からだけでなく、いくつかの大学付属図書館からも著作権の切れた書籍を中心として提供を受けているが、日本では現在のところそうした計画はないという。
ITmediaニュースより。)

大学図書館が協力して、著作権切れの図書が提供されるとすんごくうれしいんですが、そこまではまだいってないようです。東大か京大か早稲田か慶応がどどーんと協力してくれたりするとうれしいんですが。あるいは国会図書館の近代デジタルライブラリー全面協力とか。無償でやってくれるんですから、積極的に参加して産学協同じゃーいとかのたまってほしいなあ。

あと個人的には、マンガのスキャンをやって、台詞など文字部分をテキスト化してくれたりすると、もう最高なんですが。

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2006.05.11

神田:みますや

神田:みますや

創業明治の老舗居酒屋、神田のみますやにようやっと行きました。有名店なので前から狙っていたのですが、なんやかんやで機会がなく、今日ようやく。授業が終わって打ち合わせをして、で、店に着いたのは18時15分。余裕だろうと思っていたら、予約含めてすでに満席でした。19時までなら大丈夫な席ありますよ、と言われ、まあそれでもと思ってたら、ちょうど席が空いて無事ゆっくり飲めました。つーか、18時過ぎで席が空くのか~。

老舗居酒屋だけど、しっかり現代の動向も押さえてありました。地酒・焼酎が充実してるんです。これがうれしかった。鶯谷の江戸創業の鍵屋も雰囲気いいし好きだし、台湾人の友だちを連れて行ったりしたこともあるくらいなんですが、酒がいまいちなんですよね。

お店の造りもすばらしかったですけど、何よりつまみがブラベストでした。どじょうやさくらにくが食べれます。馬刺しなんか思わず赤身(1,300円、だったっけ?)と霜降り(2,000円)両方頼んでしまいました。高いけど、ボリュームあったし、すげーうまかった。次回はさくら鍋かな。。。どじょうとかも食べれます。冷や奴が半丁どかんとでてきたり、牛の煮込みが牛皿(なつかし牛丼系のしっかりした具)だったりと、もう満足でした。
また行くぞ~。おー。

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2006.05.10

覆水を盆に帰すぞ八卦掌

八卦掌川柳第一弾。なんじゃそりゃ。でも歌訣ってそういうことだよね。それなら和歌にせんとだめか。

最初の頃は身体感覚がまるでなくって、正直なところ、走圏を直されても何となく分かったような感じでピンときてなくって、いろいろ試行錯誤していたんですが、最近は、足でかんだり、腰をのばしたり、肩の力をぬいたり、といった感覚がおぼろげながら感じるようになって、もちろんきちんと要求に応えた走圏はできてないんですが、遠藤老師に直されたときに、身体感覚の変化で修正を感じ取れるように少しはなってきたように思います。ちょっとは進歩?
また身体感覚がましになってきたことで、走圏をしていて身体内部からのフィードバックを実感できるようになり、これでずいぶん走圏が楽しくなってきました。最初の頃は単にきついだけ、で感覚の腑分けができてなかったので、走圏がイマイチ楽しくなかった。それが内部でつっぱったりふんばったりしてるのが分かるようになってきました。これって筋ができてきてるのかなあとか思うわけですが。いやふらつきますけど。ぶれますけど。ただこうした感覚があるいは間違ってるかもしれませんが、走圏をする楽しみの一つになります。身体との対話ってやつですかね。錬功を重ねると走圏が気持ちよくなってくるそうですので、ちょっと楽しみです。

それで、何で覆水を盆に帰すかというと、今日の練習で遠藤老師が走圏を次のようなたとえで説明してくださったんですね。走圏の際の力の加減についていえば、それは走圏は水をたたえた洗面器を両手で持ち運ぶようなものであるとの由。力が入ってなければ器は当然支えきれない。かといって力を込めすぎてがちがちになると器を安定させれず水をこぼしてしまう。つまり走圏では身体を安定させる以上の力は必要ない。安定が持続すれば気が蓄積され、やがてより力を込めれるようになると。力の強弱よりも持続が重要というわけです。
この支える力は端腰と堤肛でつくるわけですが、加えて足でかむ力もどうバランスをとるかという問題がありますし、確かに歩きながら一定して力を入れ続けるのは、ホントに難しいです。つか、まだ全然できねーです。
さて、気が蓄積されるのはどこかといえば丹田なわけで、つまり器が丹田のことで、水が気ということになります。じゃあその水はどこから器に注がれるか。これは上半身からぽたぽたとしずくのようにたまっていくのです。勢いよくかければ水は器から飛び出てこぼれますから、自然に重力に任せて流し込むのがよい。だから上半身の力は抜いてゆるめる必要があると。走圏の上鬆下緊の意はここにあるそうです。
このたとえは、もう超級分かりやすかったです。水と器というイメージもまたきれいだし。伝統的に相性いいですしね。まああくまでたとえであって、これを具体的にイメージしながら走圏をするというのはたぶん間違いかなあと思うんですが、そのあたりどうなんでしょう。イメージしちゃうと瞑想になっちゃうから、内を動かすことになっちゃわないかと思うわけです。外動内静が内家拳の基本ですもんね。まあたとえとして理解しておいて、実際に走圏をするときには、遠藤老師の言われる要求をひたすら実現すべく身体の声を虚心に聞くというのがよさそうです。イメージしながらだと、何かそれだけでやれちゃった気になりそうですもん。妄想癖あるからなあ、僕。
まあでも前々から、熊形走圏はプーさんがはちみつの壺を抱えてるような感じで、とかボケてましたが、あながち悪い発想ではなかったのかも。『タオのプーさん』 (amazon, bk1)て名著もありましたし。

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2006.05.06

渋谷:Belgo

銀座で見つけたベルギービールのお店の系列が渋谷にもあったので行ってきました。しかも時々行ってたマッサージ店のあるビルの地下でした。注意力ないなあ。
渋谷ベルギービール
それはともかくこのBelgoというお店、雰囲気よし、つまみよし、酒うましの三拍子。店員さんたちがホントに気持ちよい接客で、うまさ10倍です。銀座のお店もそうですが、プリペイド方式で、生ビール以外は自分で直接ビールを冷蔵庫から取り出してお金を支払うかたちになっています。いろんなビールがずらずらっと並んでるのを見れて、これはこれでなかなか楽しいです。価格はブラッセルズと同じくらいでしょうか。まあつまり安くはないわけですが、地酒や焼酎を飲むことを考えると、価格帯はそんなに違わないんで、結局ついつい飲んじゃいます。

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2006.05.05

銀座:自然式食堂餉餉

テレビで紹介されてたのは知っていたんですが、複数の知り合いから行ってみたという話を聞いたので、行ってみました自然式食堂餉餉ぐるなび検索トップとかいう張り紙がありました。流行ってるのは本当みたい。母体が永谷園だからか、経営はしっかりしてるんでしょうか、店舗によって料金が違います。場所代など考えれば価格に反映されてるのはかえって安心できるかもしれません。

けけ

惣菜食べ放題といった感じで、自然食っぽいイメージはあまりありませんでした。肉あるし、味付けも濃いめで油もしっかり使ってます。いいのかしらん? より多くの人に受け入れてもらうために、普通の総菜を意識したんだろうとは思いますが。ま、おいしかったけど。

自然食、ということでいえば麻布十番のキヨズキッチンの方がいかにもベジタリアンな料理ですね。実際野菜の味をしっかり味わえるのはキヨズキッチンの方に思えます。。。と、その時は思っていたんですが、あとで調べると、どうもそこに野菜を卸しているところはメモリーウォーターとか売ってるところだと知って、ちょっと引きました。まあ確かに料理はおいしかったけど、そんな特殊な水のせいじゃないだろー。うーん、あなたの身近に水商売

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2006.05.04

神と眼差し

黄金週間妄想落ち穂拾いの2。

神といっても、神様、のことではないです。いわゆる精神の神、つまり人間を構成する三大要素、精・気・神の神について少し考えてみます。神様と精神がどっちも神なのは、天人相関の思想によっているからで、自然界においてもっともすぐれて霊妙な存在/構成物である神様(まあ一神教的な神ではないわけで、だから構成物といってもよいかと)の、相応する人体における構成要素がもっともすぐれて霊妙な働きをする精神、なわけです。霊魂との関係はというと、たぶん出自は別の文化ではないかと思うのですが、魂魄、清らかで天に帰る魂と濁っていて地に帰る魄は、それぞれ神と精に対応していて、その間に気がある、という二重のランドスケープになっているのかしらん。ちょっとテキトーすぎますかね。
ともあれ、中国哲学における、近代的自我/意識/「僕」って何?の問題は僕にとってかなり最初からの問題で、そもそも大学院に進んだのはそれをやりたかったからなんですが、何故か道教研究に足を踏み入れ、迷いながらもいくつかアイテムをゲットしてまたクエストに再挑戦といった感があります。ま、実際、そのまま単純に玄学や宋学をやらなくてよかったと思ってます。おそらく道教を学ばなければ、西洋哲学の移し鏡にしか過ぎないような哲学っぽい議論しかできなかったでしょう。

ところで、問題は、ここに意と志を放り込むとどうなるのか。意は意識、志は意志、これが神、つまり精神とは別のものということになっています。近代的自我とかいうやつ(およびそれ以降の「僕ってなあに?」)だと意識がかなり重要なはずだけど、中国の身体地図では存外意というのは重要だけどあくまでサポートのようなもの。精神と霊魂は違うということになるんでしょうかね。とりあえず神は意よりも上位にある、というかレイヤーがどうも違います。
修養法では、「煉精化気」「煉気化神」「煉神還虚」とかいいます。精とは精液とかようするにどろどろとした生命力のエッセンスそのもの、可視的です。これを気に変換し、さらに神に変換し、自分の身体全ての物質/存在としての純度を高めていって、最終的に、道、つまり宇宙と一体となる。これが内丹と呼ばれる道教錬金術の一般的な考え方です。こうなると神というのも目には見えないが、何かしらの物質/存在と見なされていることはまあ間違いないところで、ぶっちゃければ神も気の一様態であるといったところでしょうか。
では意はというと、よく分からない。意念≒意識の使い方が修行において大事なのは確かですが、ではその意そのものが身体地図の中にどう位置づけてあるのか、ちょっと微妙なところです。意は心の作用ですから、心臓の気の働き?いやもっと重要な役目を果たしていますが。。。

まあそのへん、まだ勉強不足なわけですが、気になるのは、じゃあ結局、神って何か?ってことだったりします。はっと思ったのが、これがまた八卦掌の練習に際しての、李老師の説明振りです。単換掌という技を繰り出すときに、意念は常に下半身というか丹田においているが、神は技の出る方向、視線の先に向くんだといったようなお話をされました。食事の席で神とは何ですか、という更なる問いに対して、答えるのは難しいが、例えば、有名な書家の真筆とコピーとを見比べたとき、真筆には神が発せられているのを感じる、そういうものだといったようにお答えになりました。無茶な質問だったので、答えもまたはっきりしないのは仕方ないんですが、僕が注目したのは、技の説明でも書の説明でも、指先でどこかしら方向を示しつつ説明をされていたことです。そう、神、とは眼差し、なのです。では意は違うのかというと意念は何かしらもっと内部感覚的なもの、内を向いていて必ずしも視覚には頼ってない(ありありと見える方がよいことは確かでしょうけど)。神は外部に向かって発せられる視覚を強くともなう感覚と言えるのではないでしょうか。

してみると、神こそが、まさしく「僕」そのもの、近代的自我とか意識とかの根っこにあるもの、と言えるのではないかと思うのです。初源の眼差し。自我はその眼差しが自身をみつけるところからはじまります。ウロボロスの回転が自我/意識/心を生む。がそれは自己の内に囚われた意識。しっぽを離して解き放たれる一条の龍、その眼差しこそが、神、なのでしょうか。。。

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2006.05.03

気とクオリア

黄金週間妄想シリーズということで、前に書きかけてそのままにしてあったものをいくつかまとめてみます。さて、最初の妄想は。。。

中国学の術語において、もっとも避けがたいNGワードといえば、やはり「気」をおいて他にはありません。もちろんその出自をたどれば、かなり限定して解釈することは可能です。根源的なイメージとして「息」を想定し、普段は目には見えないが、時折白い煙のようにもなり、また水分も含んでいる、生命力の源としてイメージする。。。がしかし、その後「気」の概念は拡張され、流体に止まらず、およそ万物なんでも「気」ということになってしまいました。目の前のガラスコップも「気」。そうなってしまった文脈に立ちつつ、現在の僕たちが、「気」をどう位置づけるか。
「気」をテーマにした研究は、もちろん山ほどありますが、そのように拡張された「気」を扱うことは実に難しい。結局、ほにゃららの気、というような研究になります。となると、気について議論する必要はないんじゃないの?問題の本質は、ほにゃららのところですよね、ということになったりします。だってその方が生産的だから。
実際、「気」を使わずに説明できる事柄がそのテキストでの一番言いたいことだったりする場合が往々にしてあるわけです。

そこで一時期僕が考えていたのは、気とは説明概念に過ぎない、というものでした。経緯を考えれば、説明概念になってしまった、というのが正確な表現ですか。つまり、しばしば研究者自身ですら気を実体的なものとして捉えているかのようにテキストを解釈しているけれど、おおむねテキストでの気の役割は説明概念として機能しており、その機能こそに価値がある、ということです。では何の説明概念なのかといえば、実在の、ということになるでしょうか。おおざっぱにいうと例えば仏教が一切皆空として関係性のみネットワークのみの世界観を提示できたのに対し、中国人はネットワークを支えるハードへの信頼ぬきには不安でしょうがなかったので、とにかく世界について語るときに、それは実在するんだよ、と互いに確認しないではいられなかった、それが「気」なのだ、ということです。ありとあらゆる存在が、それこそ物質から精神までがすべて「気」なのですから、「気」とは何かという議論をする際に、あまりまともに議論すると、どこかしら「気」は実在するかしないかといったような方向に議論が引き寄せられかねない、と僕は思います。それをさけるために、敢えて説明概念と喝破してしまえ、という考え方でした。

しかし議論上説明概念として理解しましょうといったメタな発言はなかなか理解されず、何かうまい説明の仕方はないものか、そんなことを考えていたら、最近、見つけました。
そう、実は、「気」とはクオリアに他ならないんだよ!な、何だってー。それは本当かキバヤシ?というものです。
クオリアとは茂木健一郎さんの提唱している概念で、

クオリアとは、「赤の赤らしさ」や、「バイオリンの音の質感」、「薔薇の花の香り」、「水の冷たさ」、「ミルクの味」のような、私たちの感覚を構成する独特の質感のことである。
クオリア・マニフェスト
といったような定義がされています。
これを読んで、あ、気ってクオリアだったんだ!と思ったわけです。万物を確かにそこにあると感じさせるもの、それは中国の伝統にとってはそれは気に他なりません。水が水らしい、水としての力を発揮できるのは、人が動物が、それとして生き生きとしているのは、気が充実しているからだと考えます。考えてみれば、気に注目するとき、ある対象のらしさ、充実している/いないを問題にする場合が多くないでしょうか?それって、まさにそのもののクオリアを問題にしているのだと言えるのではないでしょうか。つまりクオリアを実体的なものとして捉えると「気」という概念になる、というわけです。であれば、現代の僕たちは、その回路を逆にして、「気」を実体的な何かと捉えず、クオリアとして位置づけることで、議論をすっきりさせることができるのではないでしょうか?
もっと踏み込んでいえば、気とは流転する世界は一つ、万物は流通していることを実感することでもあった、つまり単に実在を感じるだけではなく、そこに流動という動きを意識することでもあったのですから、万物の実在へのクオリアとは、世界を構築するシステム、ネットワークへのクオリアであると言っていいのかもしれません。気ってベクトルだって考えるとちょっとすっきりするんだよな、とは八卦掌のN師兄の弁。そうなんですよね。存在の、生命の脈動のベクトルを実在するものとして感じる、それが気を感じるということですから。そこで気をクオリアとして位置づけるという行為は、気を実体的なものと扱わない現代的な見立てかもしれまんが(実体的なものとして科学的に実証しようというのが近代的な見立て、物語として扱うのが現代的な見立て、とここではとりあえず考えます)、他方、気をスタティックに取り上げて論じるのでなく感じることを重視して論ずる、より伝統的な思考に寄り添ったものといえます。だって、近代学術的視点で論じると気を取り上げて論ずるにもかかわらず、論者自体は気を実在するものとして扱えない、という問題があるでしょう(神の実在とは、やはり次元が違うので、およそ気の実在を「信じる」という前提で議論することは難しい)。その点で、気を実在するものとして議論上扱うことの方が、かえって実態から乖離してしまうのではと思うのです。

で、気の性質に本来的に内包される拡張された概念(ややこしい)がクオリアとして理解できるとすると、例えば理気二元論は、気からクオリアを理、実体を気と切り分けた、分析的な思考法ということになるでしょう。しかし、切り離してしまえば、クオリアのクオリアたる所以、いきいきとした質感は失われることになる。気一元論に比べるとやはり畸形的な思考でないかと思えます。おそらく実際のところは、理気を切り離すことは思考実験以上のものではなかったのでは。このあたり、きちんと宋学の議論をふまえてつめて考えてみたいですね。

クオリアの議論として「気」の議論を考えてみる、なかなかおもしろい妄想では。。。とここまで書いたところで、Amazonから本が届きました。買い損ねていた石田秀美さんの『気のコスモロジー』(amazon, bk1)も届いたので、何気に見たら、目次に「クオリアとアフォーダンス」とか書いてあって、ぱらぱらとめくってみたら、けっこう重要な概念としてクオリアが扱われていました。がーん、すでに誰かが通った道であったか。出版が2004年ですもんね。とはいえ、同書中ではクオリアはあくまでクオリア、気はあくまで気として扱われていて、微妙にすれ違っています。視点の問題でしょうか、僕の妄想の方がもう少し踏み込んだかたちになっています。実際、石田さんの議論も「気はクオリア」と言い切った方がよりすっきりしないかなと思うのですが。このへんはもう少し読んでみないと。まあ存外悪い発想をしていたわけじゃないよね僕、となぐさめつつ。。。

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2006.05.02

百錬は一走圏に如かず

タイトルの言葉「百錬不如一走圏」は董海川先師の言葉とされ、百回の練習も一回の走圏に及ばない、走圏を実践することが肝要であるという八卦掌のいわば根本教義みたいなもんです。忘れちゃいけませんと遠藤老師に叱られたのできちんと書いて戒めとします。

さて、その走圏、難しいです。「上鬆下緊大力在腿」ですから、力自体は足に込めなければいかんわけですが、李老師によればしかし意念は丹田におくとの由。え、普通力を込めると意識もそこに行くんでは?あう、難しすぎます。。。と思っていたら、最近遠藤老師が特に腰の充実ということを強調され、ここが走圏の鍵ですと教わりました。N師兄によれば、李老師からはそういったことを教わっていないので、遠藤老師による分析の成果だろうってことでした。いやしかしこれは分かりやすいですよ。意念をどこにおくかがはっきり分かります(が、もちろんその通りできやしない。。。)。
前にも遠藤老師からは、丹田と言われて、身体の部位のどこかを特定できますか?できないでしょう、腰回り全体を丹田だと考えるのですと言われてたので、李老師の意念は丹田にというお話とセットで考えると当面の具体的目標がはっきりしました。つまり、命門付近の腰の充実を意識しつつ、腰からぐりんと足まで力を入れて地面を噛みつつ走圏を行うと。んで、修練が進むにしたがって、「丹田」全体を意識するように広げていけばよい(あるいは自然と広がる、のかな)、ということになるでしょうか。今度遠藤老師に聞いてみよう。そうしよう。

まあできもしないことをあれこれ想像しても、楽しいけど、仕方ないので、結局、目の前に与えられた課題にしたがって走圏をぐーるぐるがんばるしかないわけですが。最近ようやく「上鬆下緊」の感覚が分かるようになりました。えー、できてません。が、あっ、上に力入ってると気づくようになって、一瞬は力を抜いて下げれるようになったように思います。半歩進むと元の木阿弥なんですが。げしょげしょ。

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2006.05.01

六本木で富士宮やきそば

六本木ランチシリーズということで、路地を歩いていて発見した「富士宮やきそば」ランチに心惹かれて、つい行ってきました居酒屋ろく。ランチは、納豆とかとろろとかおくらとかがのったねばり丼、シャモの親子丼、富士宮やきそばの三種類でどれも650円とずいぶんリーズナブル。
職場の同僚と行ったので、各自丼を注文してやきそばはみんなでシェアしました。僕が食べたのは親子丼です。ほどよく半熟に仕上がり、鶏肉もおいしかったのですが、もう少し肉を大きく切ってほしかったです。富士宮やきそばについては、B-1グランプリ覇者らしく、単に普通のおいしいやきそばでした。麺にコシはありましたが、あくまで焼きそば。それ以上でも以下でもないいさぎよさ。飲んだ後に食べたいですねえ。
つまみと酒をチェックしたのですが、つまみはリーズナブル、酒は地酒・焼酎ともにやや高めながらちゃんとしたものをおいてありました。店内もまさに居酒屋といった風で落ち着きますし、これは一度夜に行かねばならぬという結論に達した次第です。

一つ気になっているのが、デザートにソフトクリームがあること。しかもラインナップにニンジンとかぼちゃがありました。店の規模からして、おそらくはアイスクリームの間違いだと思うのですが、それにしてもかぼちゃはともかくニンジンですか。アイスクリームジャンキーとしては、次に行ったときは要チェックです。

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