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2006.05.03

気とクオリア

黄金週間妄想シリーズということで、前に書きかけてそのままにしてあったものをいくつかまとめてみます。さて、最初の妄想は。。。

中国学の術語において、もっとも避けがたいNGワードといえば、やはり「気」をおいて他にはありません。もちろんその出自をたどれば、かなり限定して解釈することは可能です。根源的なイメージとして「息」を想定し、普段は目には見えないが、時折白い煙のようにもなり、また水分も含んでいる、生命力の源としてイメージする。。。がしかし、その後「気」の概念は拡張され、流体に止まらず、およそ万物なんでも「気」ということになってしまいました。目の前のガラスコップも「気」。そうなってしまった文脈に立ちつつ、現在の僕たちが、「気」をどう位置づけるか。
「気」をテーマにした研究は、もちろん山ほどありますが、そのように拡張された「気」を扱うことは実に難しい。結局、ほにゃららの気、というような研究になります。となると、気について議論する必要はないんじゃないの?問題の本質は、ほにゃららのところですよね、ということになったりします。だってその方が生産的だから。
実際、「気」を使わずに説明できる事柄がそのテキストでの一番言いたいことだったりする場合が往々にしてあるわけです。

そこで一時期僕が考えていたのは、気とは説明概念に過ぎない、というものでした。経緯を考えれば、説明概念になってしまった、というのが正確な表現ですか。つまり、しばしば研究者自身ですら気を実体的なものとして捉えているかのようにテキストを解釈しているけれど、おおむねテキストでの気の役割は説明概念として機能しており、その機能こそに価値がある、ということです。では何の説明概念なのかといえば、実在の、ということになるでしょうか。おおざっぱにいうと例えば仏教が一切皆空として関係性のみネットワークのみの世界観を提示できたのに対し、中国人はネットワークを支えるハードへの信頼ぬきには不安でしょうがなかったので、とにかく世界について語るときに、それは実在するんだよ、と互いに確認しないではいられなかった、それが「気」なのだ、ということです。ありとあらゆる存在が、それこそ物質から精神までがすべて「気」なのですから、「気」とは何かという議論をする際に、あまりまともに議論すると、どこかしら「気」は実在するかしないかといったような方向に議論が引き寄せられかねない、と僕は思います。それをさけるために、敢えて説明概念と喝破してしまえ、という考え方でした。

しかし議論上説明概念として理解しましょうといったメタな発言はなかなか理解されず、何かうまい説明の仕方はないものか、そんなことを考えていたら、最近、見つけました。
そう、実は、「気」とはクオリアに他ならないんだよ!な、何だってー。それは本当かキバヤシ?というものです。
クオリアとは茂木健一郎さんの提唱している概念で、

クオリアとは、「赤の赤らしさ」や、「バイオリンの音の質感」、「薔薇の花の香り」、「水の冷たさ」、「ミルクの味」のような、私たちの感覚を構成する独特の質感のことである。
クオリア・マニフェスト
といったような定義がされています。
これを読んで、あ、気ってクオリアだったんだ!と思ったわけです。万物を確かにそこにあると感じさせるもの、それは中国の伝統にとってはそれは気に他なりません。水が水らしい、水としての力を発揮できるのは、人が動物が、それとして生き生きとしているのは、気が充実しているからだと考えます。考えてみれば、気に注目するとき、ある対象のらしさ、充実している/いないを問題にする場合が多くないでしょうか?それって、まさにそのもののクオリアを問題にしているのだと言えるのではないでしょうか。つまりクオリアを実体的なものとして捉えると「気」という概念になる、というわけです。であれば、現代の僕たちは、その回路を逆にして、「気」を実体的な何かと捉えず、クオリアとして位置づけることで、議論をすっきりさせることができるのではないでしょうか?
もっと踏み込んでいえば、気とは流転する世界は一つ、万物は流通していることを実感することでもあった、つまり単に実在を感じるだけではなく、そこに流動という動きを意識することでもあったのですから、万物の実在へのクオリアとは、世界を構築するシステム、ネットワークへのクオリアであると言っていいのかもしれません。気ってベクトルだって考えるとちょっとすっきりするんだよな、とは八卦掌のN師兄の弁。そうなんですよね。存在の、生命の脈動のベクトルを実在するものとして感じる、それが気を感じるということですから。そこで気をクオリアとして位置づけるという行為は、気を実体的なものと扱わない現代的な見立てかもしれまんが(実体的なものとして科学的に実証しようというのが近代的な見立て、物語として扱うのが現代的な見立て、とここではとりあえず考えます)、他方、気をスタティックに取り上げて論じるのでなく感じることを重視して論ずる、より伝統的な思考に寄り添ったものといえます。だって、近代学術的視点で論じると気を取り上げて論ずるにもかかわらず、論者自体は気を実在するものとして扱えない、という問題があるでしょう(神の実在とは、やはり次元が違うので、およそ気の実在を「信じる」という前提で議論することは難しい)。その点で、気を実在するものとして議論上扱うことの方が、かえって実態から乖離してしまうのではと思うのです。

で、気の性質に本来的に内包される拡張された概念(ややこしい)がクオリアとして理解できるとすると、例えば理気二元論は、気からクオリアを理、実体を気と切り分けた、分析的な思考法ということになるでしょう。しかし、切り離してしまえば、クオリアのクオリアたる所以、いきいきとした質感は失われることになる。気一元論に比べるとやはり畸形的な思考でないかと思えます。おそらく実際のところは、理気を切り離すことは思考実験以上のものではなかったのでは。このあたり、きちんと宋学の議論をふまえてつめて考えてみたいですね。

クオリアの議論として「気」の議論を考えてみる、なかなかおもしろい妄想では。。。とここまで書いたところで、Amazonから本が届きました。買い損ねていた石田秀美さんの『気のコスモロジー』(amazon, bk1)も届いたので、何気に見たら、目次に「クオリアとアフォーダンス」とか書いてあって、ぱらぱらとめくってみたら、けっこう重要な概念としてクオリアが扱われていました。がーん、すでに誰かが通った道であったか。出版が2004年ですもんね。とはいえ、同書中ではクオリアはあくまでクオリア、気はあくまで気として扱われていて、微妙にすれ違っています。視点の問題でしょうか、僕の妄想の方がもう少し踏み込んだかたちになっています。実際、石田さんの議論も「気はクオリア」と言い切った方がよりすっきりしないかなと思うのですが。このへんはもう少し読んでみないと。まあ存外悪い発想をしていたわけじゃないよね僕、となぐさめつつ。。。

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コメント

うーん、クオリアか。
個人的には、クオリアも結構 NG ワードかなという気も。
やっぱ、包括的全体を分節化するみたいな構造主義的説明も
システム論的説明も人気がなくて、実在論っぽい説明の方が
受けるのかなあ。

投稿: とも | 2006.05.04 02:01

ども。
> 個人的には、クオリアも結構 NG ワードかなという気も。
言われてみればそうかも。しかし、マイナスをかけあわせてプラスってのでどーでせう?(^_^;)

> 実在論っぽい説明の方が受けるのかなあ。
文献に寄り添って読む限り、気の実在を前提にした議論になっちゃうんですよね。民国あたりの近代化を標榜して迷信排撃とか言っててもやっぱり気は否定してなかったりと、遺伝子レベルで刻まれてる(ニセ科学的発言)といっていいような感じで。個人的にはオートポイエーシスとかええなあとか思ってたら、最近あんまり言わなくなりましたね。あれも「気」の思想っぽくて好きだった。
で、研究者、なかんづく文献学者のスタンスとしては、実証主義的に議論を組み立てると、気の実在を前提にせざるを得ない。一応そこまでやって、ただ立場としては気なんて迷信だよねorいやあるかもよのどちらかになってたりする。後者は現代日本の中国学者としては取りづらいでしょうけど。
でも当の現代日本においてすら、気の実在を前提にした中医とか気功とか武術とかは厳然と存在してるので、これは迷信/物語というお約束で文献に耽溺している場合、現実との接続に齟齬が出てくるんじゃないの、と。そうなると現代の状況には目をつぶるというのがスマートがアカデミシャンなんですが、僕はそれは嫌で、なんとかうまく橋渡しできないか、というようなことを考えていたりするんですが。

投稿: ぱーどれ | 2006.05.04 08:43

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