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2006.05.02

百錬は一走圏に如かず

タイトルの言葉「百錬不如一走圏」は董海川先師の言葉とされ、百回の練習も一回の走圏に及ばない、走圏を実践することが肝要であるという八卦掌のいわば根本教義みたいなもんです。忘れちゃいけませんと遠藤老師に叱られたのできちんと書いて戒めとします。

さて、その走圏、難しいです。「上鬆下緊大力在腿」ですから、力自体は足に込めなければいかんわけですが、李老師によればしかし意念は丹田におくとの由。え、普通力を込めると意識もそこに行くんでは?あう、難しすぎます。。。と思っていたら、最近遠藤老師が特に腰の充実ということを強調され、ここが走圏の鍵ですと教わりました。N師兄によれば、李老師からはそういったことを教わっていないので、遠藤老師による分析の成果だろうってことでした。いやしかしこれは分かりやすいですよ。意念をどこにおくかがはっきり分かります(が、もちろんその通りできやしない。。。)。
前にも遠藤老師からは、丹田と言われて、身体の部位のどこかを特定できますか?できないでしょう、腰回り全体を丹田だと考えるのですと言われてたので、李老師の意念は丹田にというお話とセットで考えると当面の具体的目標がはっきりしました。つまり、命門付近の腰の充実を意識しつつ、腰からぐりんと足まで力を入れて地面を噛みつつ走圏を行うと。んで、修練が進むにしたがって、「丹田」全体を意識するように広げていけばよい(あるいは自然と広がる、のかな)、ということになるでしょうか。今度遠藤老師に聞いてみよう。そうしよう。

まあできもしないことをあれこれ想像しても、楽しいけど、仕方ないので、結局、目の前に与えられた課題にしたがって走圏をぐーるぐるがんばるしかないわけですが。最近ようやく「上鬆下緊」の感覚が分かるようになりました。えー、できてません。が、あっ、上に力入ってると気づくようになって、一瞬は力を抜いて下げれるようになったように思います。半歩進むと元の木阿弥なんですが。げしょげしょ。

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コメント

ここで言う、『百』というのは、『あらゆる』ということを指しているんだろうと理解して、『どんな練功方法も、走圏にはかなわない』と読んでいるんですが、間違い? 具体的に百ってことっすか?
てか、細か過ぎ?……(笑)

投稿: いわと | 2006.05.04 01:38

ども。なるほど「百種類の練功も」ということですか。そっちでもおかしくないですね。教わったときは、回数のことだと思ってたんですが。単換掌より龍形、龍形より熊形、みたいな感じで八卦掌内部での感覚で理解していました。他の武術も視野に入れると種類で考えた方が自然かもしれません。

「百」を「あらゆる」と意訳してしまうのはまったくもって正しいのですが、通常日本語でも百回千回と言われたときには「たくさん」という意味で解しますよね。だからどっちだっていいんです。ただ「百」という具体的な数を示した方が、レトリックとしてよりビジュアルじゃないか思います。特に「一」走圏と対比していますから、百回とか百種とかの方が実感をもってイメージできませんか?(^^ゞ
「白髪三千丈」をすごく長いと訳してその言葉で理解するより、三千丈?と頭の中で想像してありえねーと思う方が、その長さを実感できる、そこが大切なんだと思います。中国古典を読んでいると、このビジュアルイメージを構築できるかできないかがけっこう読みの妥当性に関わってくる場合が多いんですね。スムーズにイメージできない場合、読み間違っていることが多かったりします。

投稿: ぱーどれ | 2006.05.04 09:09

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