2006.05.04

神と眼差し

黄金週間妄想落ち穂拾いの2。

神といっても、神様、のことではないです。いわゆる精神の神、つまり人間を構成する三大要素、精・気・神の神について少し考えてみます。神様と精神がどっちも神なのは、天人相関の思想によっているからで、自然界においてもっともすぐれて霊妙な存在/構成物である神様(まあ一神教的な神ではないわけで、だから構成物といってもよいかと)の、相応する人体における構成要素がもっともすぐれて霊妙な働きをする精神、なわけです。霊魂との関係はというと、たぶん出自は別の文化ではないかと思うのですが、魂魄、清らかで天に帰る魂と濁っていて地に帰る魄は、それぞれ神と精に対応していて、その間に気がある、という二重のランドスケープになっているのかしらん。ちょっとテキトーすぎますかね。
ともあれ、中国哲学における、近代的自我/意識/「僕」って何?の問題は僕にとってかなり最初からの問題で、そもそも大学院に進んだのはそれをやりたかったからなんですが、何故か道教研究に足を踏み入れ、迷いながらもいくつかアイテムをゲットしてまたクエストに再挑戦といった感があります。ま、実際、そのまま単純に玄学や宋学をやらなくてよかったと思ってます。おそらく道教を学ばなければ、西洋哲学の移し鏡にしか過ぎないような哲学っぽい議論しかできなかったでしょう。

ところで、問題は、ここに意と志を放り込むとどうなるのか。意は意識、志は意志、これが神、つまり精神とは別のものということになっています。近代的自我とかいうやつ(およびそれ以降の「僕ってなあに?」)だと意識がかなり重要なはずだけど、中国の身体地図では存外意というのは重要だけどあくまでサポートのようなもの。精神と霊魂は違うということになるんでしょうかね。とりあえず神は意よりも上位にある、というかレイヤーがどうも違います。
修養法では、「煉精化気」「煉気化神」「煉神還虚」とかいいます。精とは精液とかようするにどろどろとした生命力のエッセンスそのもの、可視的です。これを気に変換し、さらに神に変換し、自分の身体全ての物質/存在としての純度を高めていって、最終的に、道、つまり宇宙と一体となる。これが内丹と呼ばれる道教錬金術の一般的な考え方です。こうなると神というのも目には見えないが、何かしらの物質/存在と見なされていることはまあ間違いないところで、ぶっちゃければ神も気の一様態であるといったところでしょうか。
では意はというと、よく分からない。意念≒意識の使い方が修行において大事なのは確かですが、ではその意そのものが身体地図の中にどう位置づけてあるのか、ちょっと微妙なところです。意は心の作用ですから、心臓の気の働き?いやもっと重要な役目を果たしていますが。。。

まあそのへん、まだ勉強不足なわけですが、気になるのは、じゃあ結局、神って何か?ってことだったりします。はっと思ったのが、これがまた八卦掌の練習に際しての、李老師の説明振りです。単換掌という技を繰り出すときに、意念は常に下半身というか丹田においているが、神は技の出る方向、視線の先に向くんだといったようなお話をされました。食事の席で神とは何ですか、という更なる問いに対して、答えるのは難しいが、例えば、有名な書家の真筆とコピーとを見比べたとき、真筆には神が発せられているのを感じる、そういうものだといったようにお答えになりました。無茶な質問だったので、答えもまたはっきりしないのは仕方ないんですが、僕が注目したのは、技の説明でも書の説明でも、指先でどこかしら方向を示しつつ説明をされていたことです。そう、神、とは眼差し、なのです。では意は違うのかというと意念は何かしらもっと内部感覚的なもの、内を向いていて必ずしも視覚には頼ってない(ありありと見える方がよいことは確かでしょうけど)。神は外部に向かって発せられる視覚を強くともなう感覚と言えるのではないでしょうか。

してみると、神こそが、まさしく「僕」そのもの、近代的自我とか意識とかの根っこにあるもの、と言えるのではないかと思うのです。初源の眼差し。自我はその眼差しが自身をみつけるところからはじまります。ウロボロスの回転が自我/意識/心を生む。がそれは自己の内に囚われた意識。しっぽを離して解き放たれる一条の龍、その眼差しこそが、神、なのでしょうか。。。

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2006.05.03

気とクオリア

黄金週間妄想シリーズということで、前に書きかけてそのままにしてあったものをいくつかまとめてみます。さて、最初の妄想は。。。

中国学の術語において、もっとも避けがたいNGワードといえば、やはり「気」をおいて他にはありません。もちろんその出自をたどれば、かなり限定して解釈することは可能です。根源的なイメージとして「息」を想定し、普段は目には見えないが、時折白い煙のようにもなり、また水分も含んでいる、生命力の源としてイメージする。。。がしかし、その後「気」の概念は拡張され、流体に止まらず、およそ万物なんでも「気」ということになってしまいました。目の前のガラスコップも「気」。そうなってしまった文脈に立ちつつ、現在の僕たちが、「気」をどう位置づけるか。
「気」をテーマにした研究は、もちろん山ほどありますが、そのように拡張された「気」を扱うことは実に難しい。結局、ほにゃららの気、というような研究になります。となると、気について議論する必要はないんじゃないの?問題の本質は、ほにゃららのところですよね、ということになったりします。だってその方が生産的だから。
実際、「気」を使わずに説明できる事柄がそのテキストでの一番言いたいことだったりする場合が往々にしてあるわけです。

そこで一時期僕が考えていたのは、気とは説明概念に過ぎない、というものでした。経緯を考えれば、説明概念になってしまった、というのが正確な表現ですか。つまり、しばしば研究者自身ですら気を実体的なものとして捉えているかのようにテキストを解釈しているけれど、おおむねテキストでの気の役割は説明概念として機能しており、その機能こそに価値がある、ということです。では何の説明概念なのかといえば、実在の、ということになるでしょうか。おおざっぱにいうと例えば仏教が一切皆空として関係性のみネットワークのみの世界観を提示できたのに対し、中国人はネットワークを支えるハードへの信頼ぬきには不安でしょうがなかったので、とにかく世界について語るときに、それは実在するんだよ、と互いに確認しないではいられなかった、それが「気」なのだ、ということです。ありとあらゆる存在が、それこそ物質から精神までがすべて「気」なのですから、「気」とは何かという議論をする際に、あまりまともに議論すると、どこかしら「気」は実在するかしないかといったような方向に議論が引き寄せられかねない、と僕は思います。それをさけるために、敢えて説明概念と喝破してしまえ、という考え方でした。

しかし議論上説明概念として理解しましょうといったメタな発言はなかなか理解されず、何かうまい説明の仕方はないものか、そんなことを考えていたら、最近、見つけました。
そう、実は、「気」とはクオリアに他ならないんだよ!な、何だってー。それは本当かキバヤシ?というものです。
クオリアとは茂木健一郎さんの提唱している概念で、

クオリアとは、「赤の赤らしさ」や、「バイオリンの音の質感」、「薔薇の花の香り」、「水の冷たさ」、「ミルクの味」のような、私たちの感覚を構成する独特の質感のことである。
クオリア・マニフェスト
といったような定義がされています。
これを読んで、あ、気ってクオリアだったんだ!と思ったわけです。万物を確かにそこにあると感じさせるもの、それは中国の伝統にとってはそれは気に他なりません。水が水らしい、水としての力を発揮できるのは、人が動物が、それとして生き生きとしているのは、気が充実しているからだと考えます。考えてみれば、気に注目するとき、ある対象のらしさ、充実している/いないを問題にする場合が多くないでしょうか?それって、まさにそのもののクオリアを問題にしているのだと言えるのではないでしょうか。つまりクオリアを実体的なものとして捉えると「気」という概念になる、というわけです。であれば、現代の僕たちは、その回路を逆にして、「気」を実体的な何かと捉えず、クオリアとして位置づけることで、議論をすっきりさせることができるのではないでしょうか?
もっと踏み込んでいえば、気とは流転する世界は一つ、万物は流通していることを実感することでもあった、つまり単に実在を感じるだけではなく、そこに流動という動きを意識することでもあったのですから、万物の実在へのクオリアとは、世界を構築するシステム、ネットワークへのクオリアであると言っていいのかもしれません。気ってベクトルだって考えるとちょっとすっきりするんだよな、とは八卦掌のN師兄の弁。そうなんですよね。存在の、生命の脈動のベクトルを実在するものとして感じる、それが気を感じるということですから。そこで気をクオリアとして位置づけるという行為は、気を実体的なものと扱わない現代的な見立てかもしれまんが(実体的なものとして科学的に実証しようというのが近代的な見立て、物語として扱うのが現代的な見立て、とここではとりあえず考えます)、他方、気をスタティックに取り上げて論じるのでなく感じることを重視して論ずる、より伝統的な思考に寄り添ったものといえます。だって、近代学術的視点で論じると気を取り上げて論ずるにもかかわらず、論者自体は気を実在するものとして扱えない、という問題があるでしょう(神の実在とは、やはり次元が違うので、およそ気の実在を「信じる」という前提で議論することは難しい)。その点で、気を実在するものとして議論上扱うことの方が、かえって実態から乖離してしまうのではと思うのです。

で、気の性質に本来的に内包される拡張された概念(ややこしい)がクオリアとして理解できるとすると、例えば理気二元論は、気からクオリアを理、実体を気と切り分けた、分析的な思考法ということになるでしょう。しかし、切り離してしまえば、クオリアのクオリアたる所以、いきいきとした質感は失われることになる。気一元論に比べるとやはり畸形的な思考でないかと思えます。おそらく実際のところは、理気を切り離すことは思考実験以上のものではなかったのでは。このあたり、きちんと宋学の議論をふまえてつめて考えてみたいですね。

クオリアの議論として「気」の議論を考えてみる、なかなかおもしろい妄想では。。。とここまで書いたところで、Amazonから本が届きました。買い損ねていた石田秀美さんの『気のコスモロジー』(amazon, bk1)も届いたので、何気に見たら、目次に「クオリアとアフォーダンス」とか書いてあって、ぱらぱらとめくってみたら、けっこう重要な概念としてクオリアが扱われていました。がーん、すでに誰かが通った道であったか。出版が2004年ですもんね。とはいえ、同書中ではクオリアはあくまでクオリア、気はあくまで気として扱われていて、微妙にすれ違っています。視点の問題でしょうか、僕の妄想の方がもう少し踏み込んだかたちになっています。実際、石田さんの議論も「気はクオリア」と言い切った方がよりすっきりしないかなと思うのですが。このへんはもう少し読んでみないと。まあ存外悪い発想をしていたわけじゃないよね僕、となぐさめつつ。。。

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2006.04.22

民国初中期の八卦掌拳譜

道文研例会での発表予定。ただいま準備中。いつもながらいきおいだけなのが心苦しいのですが。実践面での蓄積はまだまだなので、とりあえず文献面のアプローチからいってみます。基本は大切さあ。

で、ホントにいきおいだけの発表になってしまい、反省。まずレジュメの作り方からダメだしをされました。突貫工事で作ったのでいたらなかったという問題ではなく、聴き手のことを考えるレジュメ作りが身体化されてないから、追い込まれて馬脚が出るのだということなんですよね。だからもっと早くから準備しようという反省はしないのだあ(その反省は過去「何度」もしていてあまり成果が見られないため)。そのかわり切羽詰まってるときでも常に聴き手目線でレジュメを構成できるように心がける方向で反省しております。

それはともかく、発表の構成は以下の通り。


1.はじめに
+八卦掌:いわゆる内家拳の一つ。
 cf.太極・形意・八卦の三家。
+中国武術:現代日本社会に影響のある「道教」的なものの一つ。
 cf.風水・易占・気功・太極拳
+思想研究でも可能な参与観察として。
 cf.内丹・気功・房中術
+現地調査のハードルが高め
 →「やって」みないと分からない。習得に時間がかかる。
+日本での実践が容易。
+党派争いから如何に距離を置くか。
 
2.八卦掌の概要
(1)八卦掌簡史
+董海川(約1813-1882)を開祖とする。
+道士に習ったという伝説
 *「陰陽八盤掌」を元に河図・洛書の易理によって理論化した。
 *「転天尊」という功法をもとに編み出した。
  →『七真言行伝』に丘處機によって「洞窟の中を止まらずぐるぐる回る」修練法として言及。(張方2004) ※未詳

→資料:松田1976・『八卦拳真伝』・『拳意述真』

(2)八卦掌の拳譜
+民国初中期の拳譜
+孫福全『八卦拳学』 1916年序
+孫福全『拳意述真』 1923年序
+黄柏年『龍形八卦掌』 1928年序
+徐哲東『国技論略』 1929年序
+金恩忠『国術名人録』 1933年序
+孫錫堃『八卦拳真伝』 1934年序
+盧景貴『曹氏八卦拳全譜』 1942年序 ※序によれば馬貴→曹鐘昇。ただし伝記落丁。
……
→資料:張全亮2005

+拳譜の再刊
秘書集成:技撃類 団結出版(中国) ※影印
古拳譜叢書 山西科学技術出版社(中国) ※影印
武備叢書 逸文出版(台湾) ※活字・注釈付

(3)八卦掌研究
日本:
+MAGAZINEPLUSで1件のみヒット。ただし魯迅研究。
 cf.渡辺宏明「魯迅と八卦掌」、法政大学教養部紀要103、1998年
+太極拳では103件がヒットするが、一般誌か保健体育学方面。思想史的考察はわずか。
+上記に含まれていないものとしては、「うーしゅう」(現在停刊)など中国武術専門誌の記事があるが、こちらは調査中。
+参考文献にあげた概説書や通史研究は存在するが、八卦掌の扱いは高くはない。
+太極拳に関しては、三浦2000において文献学的アプローチによりその伝統思想との関係が論じられている。
中国:
+CNKIで292件ヒット。ただし専論に限定されない。大半が武術専門誌に掲載されたもの。思想史的考察はやはり少ないが、。
+太極拳では4,051件ヒットと、圧倒的に差がある。
+概説書としてだが、郝勤1997において道教との関係が論じられている。
台湾:
+期刊文献検索で16件ヒット。八卦掌の歴史や思想等を論ずるものもあるようだが、ほとんど武術専門誌。
 
3.八卦掌の特徴
(1)各拳譜の構成比較
+『龍形八卦掌』
+『八卦拳真伝』
+『曹氏八卦拳全譜』

→資料:『龍形八卦掌』・『八卦拳真伝』・『曹氏八卦拳全譜』

(2)太極・形意・八卦の相互比較

→資料:『拳意述真』・『国技論略』
 
4.八卦掌と内丹
+拳譜にみる内丹の位置付け
+武術の基礎
+内丹を内功、武術を外功として内外双修を謳う。

→資料:『八卦拳真伝』・『拳意述真』
 
5.おわりに
今後の展望
+参与観察の成果報告
+拳譜の比較による掌法の構成を分析
+同時期の日中の状況とあわせて検討→心霊学・気功
 cf.合気道:植芝盛平(1883-1969)、調和道:藤田霊斎(1868-1957)

→資料:笠尾1994・『国術名人録』

+現代のスピリチュアリズム(とその研究)への接続

付:馬貴派八卦掌における考え方
+走圏の修練は内丹の錬功(周天法)と同じ
+八卦の理論は後付け
 
参考文献
松田隆智、『図説中国武術史』、新人物往来社、1976年
笠尾恭二『中国武術史大観』、福昌堂、1994年
郝勤『道教與武術』、文津出版社、1997年
林伯原、『近代中国における武術の発展』、不昧堂出版、1999年
三浦國雄、「太極拳と中国思想―『陳氏太極拳図説』を読む」、石田秀美編『東アジアの身体技法』、勉誠出版、2000年
張方「八卦掌源流考」、精武2004年9期、2004年
張全亮、『八卦掌答疑 関於「八卦掌」の百科全書』、新潮社(台北)、2005年


今回も多分に見切り発車で、アカデミックな研究として構成できるかという方法論のレベルですでになやましいという困った状況で、助けを請うような意味合いのもので、あたって砕けた感はありますが、得たものは大きかったです。感謝感謝。

以下は、内容に関してのいただいた示唆を順不同でメモ。

『七真言行伝』は章回小説の『七真伝』の可能性がある。

 →清朝のもので新しく、相当流布した。一般の七真イメージの形成はここから。
 →現在でもこれを読んで入道を決意した人がいたりする。
 →現在でもこれを使って信徒に説法を行ったりもする。

『易筋経』は現在でも道観で実践されている。
「国術」「国技」という言い方は当時のナショナリズムの反映では。

 →京劇も「国劇」と言い直したりしたのもこの時代。

『八卦拳真伝』の道功は通俗内丹では。

 →先天道と術語がかぶっている印象。白蓮教周辺の語り口とまず比較
 →趙避塵については東大の横手せんせいが専論を最近書かれたけど、公刊はまだ

全真教にしろ、白蓮教にしろ、一般的なイメージと異なって実態は様々なので個別具体的な検証が必要。

 →他称されているが実際は違うとか、自称しているが実際は違うとか。

義和団関係の研究資料を抑えるべき。

 →佐藤公彦『義和団の起源とその運動』、研文出版、1999年
 →山東大学歴史系中国近代史教研室編『山東義和団調査資料選編』、斉魯書社、1980年

宝巻の世界観重要。

三浦せんせいのスタイルを参考にしつつとなると、文献学的なアプローチでは『八卦拳真伝』に限定して議論を進めた方が論としてはまとめやすそうです。横手論文に超期待という他力本願の方向で(でも跡地にぺんぺん草ひとつないすげえ論文になってそうなのがコワイ)。実際、拳譜間の比較はそもそも僕自身が一通り基礎的な掌法を習わないかぎりはおぼつかないし、そうなるとあとまあ2,3年はかかります。のんびり論文書いてらんないので、できるところからやらないと。。。
また、(業界的な文脈で)発展的な主題の選び方かつ自分の興味に合致する方向でとなると、やはり催眠術や心霊学と絡めて論じていくのが楽しそうです。「身体論」みたいな方向になるんでしょうか。それってマジックワードじゃない?との指摘は懇親会でもされましたが、僕自身もかつてはそのように考え、「身体」とか「心身」とかで論を立てることを忌避してたのですが、そこはそれ、最近は分かりやすさ重要=目指せ科研費獲得(爆という戦略性も大切かと思い直しているところです。。。そうか、ここで「臨床」だ!
当面はいろいろ示唆いただいた課題をできる範囲でクリアしつつこの二方面で研究をすすめていこうかと思った次第。このあたりは八卦掌の大師兄にすげえ詳しい人がいるので、教わることが多くなりそう。わくわく。
大論文は無理でも、ジャブを重ねていくつもりです、はい。

追記(5/21):横手せんせいの論文って、前に出ている「劉名瑞と趙避塵--近代北京の内丹家について」(東洋史研究61(1)、2002年)と違うのかなあ。とりあえずここからチェックかしらん。

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2006.04.20

インターフェース人文学

はかとも/無縁のほうこうで、川村邦光編『文化/批評』2006年冬季号:【特集】∥憑依の近代とポリティクス∥を知って、読みたーいと川村研究室に跳んだところ、大阪大学のCOEに「インターフェース人文学」というのを発見しました。いまさらかよ。いやいや、それで単純だから人文工学的ネタだろうかわくわくとサイトを見てみると、期待とは微妙にずれていました。「インターフェース」の意味は、

インターフェイスは二重の構造を持っている。一つは異なる複数の文化の間の接触、摩擦、交差を国家、地域を超えた視点で見る「横断的な知」、もう一つは研究者と現場、専門家と一般市民などの非専門家をつなぐ「臨床的な知」である。

とのことだそうで、どちらも志としてはものすごく首肯できるもので、発表が終わったら中をじっくり読もうと思ってるんですが、しかし「臨床」って何だかマジックワードみたいでちょっとなあと嫌な予感もあり。だって、実態はともかく、
日本の哲学界で唯一、文献研究型から脱却してケアや教育の現場との強い連携を保ちながら哲学の社会化に取り組む大型プロジェクト「臨床コミュニケーションのモデル開発と実践」

みたいなスローガンを掲げられると、何だか文献研究が悪者にされてる感じがします。「脱却」ですって、奥様。いやですわねえ、おほほほ。。。被害妄想ですかね。

ちなみに言うまでもないことながら、儒学なんて、もともと古典を読んで今の問題を解決するのが本義だったんですから、中国哲学に関して言えば、それは本来的に「臨床」であり「生活科学」であったわけです。だから問題は文献研究という手法ではないのです。

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2006.04.15

国際会議:仏教と精神療法との対話の継続

仏教と精神療法との対話の継続という国際会議が、花園大学で5月16~19日の4日間に渡って開催されるそうです。参加費が1日1万円というおっとろしい会議ですが、非常に興味があります。が、4日間すべて平日。無理です。ああでも、最終日のセッションはどっちも興味あります。

9:00-12:00 午前セッション
パネルVII「宗教とスピリチュアリティの比較研究」
13:30-17:00 午後セッション
パネルVIII「変容をもたらす物語と神話学的探求」

発表者がまだ公表されてないのですが、内容次第じゃ行ってしまおうかしらん。次の日土曜日なら日帰りしなくてすむし。うう、なやましい。本当は、木曜日の午前セッション、
パネルV「日本におけるこれまでの心理学および瞑想の実践:歴史的、理論的、実践的考察」

も非常に興味があるものの、木曜日は午後に予定があるのでダメです。

ところで、初日以外はすべて朝に、

8:00-8:50 Social Dreaming Workshop(指導:Dr. Dale Mathers)
8:20-8:50 Sitting Meditation Practice(指導:Dr. Polly Young-Eisendrath)

なるものがあって、どうも実践もやるみたいです。
後ろの方は座禅の指導ということですよね。前半の「Social Dreaming」って、なんじゃらほい。ググったところ、Social Dreaming Instituteなるずばりなサイトがあり、その解説によれば、
Social Dreaming is a discipline for discovering the social meaning and significance of dreams through sharing them with each other’s.

だそうです。ユングの元型論みたいなんかなあ。おもしろそうです。

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2006.04.03

歴史学者のロールモデルとしての『ワンピース』

マンガで、しかも少年マンガで、これほど学者が、それも文系の学者が、かっこよく描かれたことがあったでしょうか?そう、『ONE PIECE』41巻です。主要メンバーの一人ニコ・ロビンが考古学者(しかもきれいな年上の姐さんですよ、あなた。いや少年マンガ読むときは魂は少年ですから!)というのも、友情・努力・勝利のジャンプマンガの王道をいってる作品の登場人物として希有なのですが、この巻ではその壮絶な過去が明かされます。この過去のエピソードが、研究者的にはぐっとくるものがあります。

ロビンは幼少時代、故郷オハラで考古学者グループの中で英才教育を受けて育つも、その研究者グループたちは、時の政府、権力者たちによって隠蔽された彼らにとって都合の悪い歴史の真実にたどり着こうとしていたために、政府の手の者たちによって罪を着せられてしまいます。そして考古学者たちはその研究ごと焼き討ちにされ、少しでも次代に本を残そうを涙ぐましい努力するも、結局皆殺しにされてしまうのでした。ロビンはたった一人の生き残りの学者として歴史の真実を求めて旅立ったというわけなのです。

いやー、かっこいい。泣ける。学者の理想像をすごく分かりやすくかつかっこよく描いているのは、同じ業界にいる者としてうれしい限りです。
とはいえ、オハラの学者さんたちをかっこいいと思いつつも、一方でうさんくささを感じてしまったりするわけです。
だって、そのかっこよさはこうした善悪がはっきりした(つまり主人公vsその敵という構図が明らかな)お話の世界だからこそ、生きるのです。そんなに白黒はっきりしないこの現実では、そうしたかっこよさを追求すると、しばしば独善的になり、かえって問題を増幅させる可能性があります。昔も今もそうした困った学者さんはいますよね。

そうそう、ここでの考古学者は、ほとんど歴史学者と読み替えても全く差し支え有りません。語られぬ歴史を見つけ出す研究はわりあい最近のトレンドですけども、権力者の横暴にその学問をもって抵抗するというのは、中国の伝統的な歴史学者の理想像でもあります。

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2006.03.03

老子3章と八卦掌

~書きかけ~

さて、講習会での老子トークの続き続きです。41章の一節を引かれた後に、李老師は以下の言葉を続けられていました。

不尚賢,使民不爭。不貴難得之貨,使民不為盜。不見可欲,使民心不亂。是以聖人之治,虛其心,實其腹,弱其志,強其骨;常使民無知、無欲,使夫智者不敢為也。為無為,則無不治。 (第3章)

其の心を虛しくし、其の腹を實たす[1]。其の志を弱くし、其の骨を強くす[2]

[1]
(1)「心者規也。中有吉凶善惡。腹者道嚢。氣常欲實。心爲凶惡。道去嚢空。空者耶入。便{急攴}人。虚去心中凶惡。道來歸之。腹則實矣。」
(2)「心懐智而腹懐食、虚有智而實無知也。」

[2]
(1)「志心に隨ひて善惡有り。骨腹に隨ひて氣を仰ぐ。志を彊ひて惡を爲さば、氣去り骨枯る。其の惡志を弱めれば、氣歸り髓滿つ。」(志隨心有善惡。骨隨腹仰氣。彊志爲惡。氣去骨枯。弱其惡志。氣歸髓滿。)
(2)「骨知る無くして以て幹たり、志事を生みて以て亂たり。」(骨無知以幹、志生事以亂。)

心や情念を静め腹に気をため骨に髄を満たすことが聖人の治、つまり道であるということですが、これはほとんど走圏で要求されている内容に等しいわけで、八卦掌で行うべき道、それは走圏だということなのでしょう。老子原文では政治の例えとして使われていますが、例えに使われるということは、身体観として当時すでに定着していたものだったのでしょう。
もちろん、上半身を虚に下半身を実に、という考え方は八卦掌に限らない伝統的な身体観にもとづくものです。李老師自身、どんな運動でも走圏で求められているものと同じ要求をもつものではあれば、それは良い運動であると言われてました。もちろん、そんな運動、そうはないわけですが。

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2006.03.01

老子41章と八卦掌

~書きかけ~

さて、講習会での老子トークの続きです。最終日、ちょっと遅れて行ったので、お話そのものは伺ってないのですが、黒板には次の言葉が書かれていました。

上士聞道,勤而行之;中士聞道,若存若亡;下士聞道,大笑之,不笑不足以為道。故建言有之:明道若昧,進道若退,夷道若纇,上德若谷,大白若辱,廣德若不足,建德若偷,質真若渝,大方無隅,大器晚成,大音希聲,大象無形。道隱無名,夫唯道善貸且成。 (第41章)


上士道を聞くに、勤めて之を行ふ。中士道を聞くに、存するが若く亡するが若くす。下士道を聞くに、大いに之を笑ふ。笑はざれば以て道と為すに足らず。

李老師は「若信若疑」とされていましたが、意味は同じですね。特に補注するまでもなく、意味は明晰。八卦掌を学ぶ者、上士たれ、ということでしょう。講習会の後で、李老師に、「走圏をしていると身体のここが痛むんですが」「手の形はこれでいいんでしょうか」などなど初学者何人かで質問させていただいたりしてたのですが、個々別々にお答えいただいた後で、「いろいろそういう疑問を持つのは分かる、私もそうだったから。でもひたすら練習あるのみだよ」とのお話が。走圏を続けて練功が積まれていけば、分かるようになるので決して焦ってはいけないと諭されたのでした。まさに「大器は晩成す」ということですか。
また遠藤老師からは別の日に、走圏をするときには、「含胸亀背下端腰……」といった具体的な要求を満たすことだけに専心し、他の武術ではこうだからこう動かしてみようとか、身体感覚で何か感じたものがあったからそれをさらに求めるとか、そうしたことをしてはいけないとのお話がありました。走圏を行っている最中も上士たれ、ということです。

うう、すいません中士で。。。走圏の最中もついつい「あうあう、痛いよつかれたよ」とか心の中で叫んでますし、八卦掌を学ぶということ自体をやはり距離を置いて見ている自分がいます。前者は僕が単にへたれ、後者は研究者としての性ってやつでしょうか。いたっておりません。せめてへたれな自分は何とかしたいもんです。

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2006.02.28

老子21章と八卦掌

~書きかけ~

2006年1月~2月の李老師の講習会で、中国哲学の研究をしていますと一応控え目に言ったところ、李老師から読んで価値ある古典として示されたのが『老子』と『易筋経』でした。前者は思想的な価値、後者は実践的な価値を認められていました。どちらも八卦掌の立場から注釈を書かれている最中だそうで、先に易筋経の方から仕上げて出版を考えておられるとか。おおう、一日千秋で待つしかありますまい。実際、八卦掌だけでなく、一般に中国武術ではこの二書の影響は大きく、道仏混淆の一例としても興味深いものなのです。
そんな事情とは関係なく、講習会の中で李老師は何度か『老子』の言葉を引用されましたので、それを以下紹介します(李先生による引用は下線部のみ)。

下線部の箇所については、補注として、(A)後漢の五斗米道によって作られたとされる『想爾注』、(B)六朝期の夭折の天才王弼の注釈、の二つを挙げました。本文にも異同がないではない(特に『想爾注』)ですが、まあそこは普通のやつを。なお、道氣社の電子版工具書を参考にしました。

なお以下の文章は僕の個人的な解釈が多分に含まれており、李老師の言葉を正確に反映している訳ではありません。当たり前のことですが、ここにお断りしておきます。

孔德之容,惟道是從。道之為物,惟恍惟惚。惚兮恍兮,其中有象。恍兮惚兮,其中有物。窈兮冥兮,其中有精。其精甚真,其中有信。自古及今,其名不去,以閱眾甫。吾何以知眾甫之狀哉?以此。 (第21章)


恍たり惚たり、其の中物有り[1]。窈たり冥たり、其の中精有り[2]。其の精甚だ真にして、其の中信有り[3]。

[1]
(B)「無形始物を以て、成物に繋げず。萬物以て始まり以て成るに、其の然る所以を知らず。」(以無形始物、不繋成物。萬物以始以成、而不知其所以然。)

[2]
(A)「大除中也。有道精分之與萬物。萬物精共一本。其精甚眞。生死之官也。精其眞。當寶之也。」
(B)「窈冥、深遠之歎。深遠不可得而見、然而萬物由之。其可得見以定其真。」

[3]
(A)「古仙士寶精以生。今人失精以死。大信也。」
(B)「信、信驗也。物反窈冥、則真精之極得、萬物之性定。」

この一句は、講習会終了後、食事をしながらいろいろと質問させていただいていたときに、李老師が引かれたものです。正直、この句を何故引かれたのか分からず、さらに尋ねると、一通り字句の説明をされた後、言葉に出来るような道は本当の道ではないと言うよね、と老子第一章「道可道、非常道」を引かれました。
おそらく李老師の真意は、八卦掌の最終的な目的におかれる「道」というものは、本来言語化できないものだからあれこれ聞いたり考えたりするより、ともかく練習しなさいと。練功が本物になれば「信」じられるようになるからね、ということだったのではないでしょうか。

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2006.02.22

許地山の道教研究について

昨年学会で発表して、その後論文化しました。
抜刷をPDFにして公開してあります。テキストそのものを載せるのが理想的ですが、サイト構成を検討中につきちょっとばかりペンディング。

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