2006.05.10

覆水を盆に帰すぞ八卦掌

八卦掌川柳第一弾。なんじゃそりゃ。でも歌訣ってそういうことだよね。それなら和歌にせんとだめか。

最初の頃は身体感覚がまるでなくって、正直なところ、走圏を直されても何となく分かったような感じでピンときてなくって、いろいろ試行錯誤していたんですが、最近は、足でかんだり、腰をのばしたり、肩の力をぬいたり、といった感覚がおぼろげながら感じるようになって、もちろんきちんと要求に応えた走圏はできてないんですが、遠藤老師に直されたときに、身体感覚の変化で修正を感じ取れるように少しはなってきたように思います。ちょっとは進歩?
また身体感覚がましになってきたことで、走圏をしていて身体内部からのフィードバックを実感できるようになり、これでずいぶん走圏が楽しくなってきました。最初の頃は単にきついだけ、で感覚の腑分けができてなかったので、走圏がイマイチ楽しくなかった。それが内部でつっぱったりふんばったりしてるのが分かるようになってきました。これって筋ができてきてるのかなあとか思うわけですが。いやふらつきますけど。ぶれますけど。ただこうした感覚があるいは間違ってるかもしれませんが、走圏をする楽しみの一つになります。身体との対話ってやつですかね。錬功を重ねると走圏が気持ちよくなってくるそうですので、ちょっと楽しみです。

それで、何で覆水を盆に帰すかというと、今日の練習で遠藤老師が走圏を次のようなたとえで説明してくださったんですね。走圏の際の力の加減についていえば、それは走圏は水をたたえた洗面器を両手で持ち運ぶようなものであるとの由。力が入ってなければ器は当然支えきれない。かといって力を込めすぎてがちがちになると器を安定させれず水をこぼしてしまう。つまり走圏では身体を安定させる以上の力は必要ない。安定が持続すれば気が蓄積され、やがてより力を込めれるようになると。力の強弱よりも持続が重要というわけです。
この支える力は端腰と堤肛でつくるわけですが、加えて足でかむ力もどうバランスをとるかという問題がありますし、確かに歩きながら一定して力を入れ続けるのは、ホントに難しいです。つか、まだ全然できねーです。
さて、気が蓄積されるのはどこかといえば丹田なわけで、つまり器が丹田のことで、水が気ということになります。じゃあその水はどこから器に注がれるか。これは上半身からぽたぽたとしずくのようにたまっていくのです。勢いよくかければ水は器から飛び出てこぼれますから、自然に重力に任せて流し込むのがよい。だから上半身の力は抜いてゆるめる必要があると。走圏の上鬆下緊の意はここにあるそうです。
このたとえは、もう超級分かりやすかったです。水と器というイメージもまたきれいだし。伝統的に相性いいですしね。まああくまでたとえであって、これを具体的にイメージしながら走圏をするというのはたぶん間違いかなあと思うんですが、そのあたりどうなんでしょう。イメージしちゃうと瞑想になっちゃうから、内を動かすことになっちゃわないかと思うわけです。外動内静が内家拳の基本ですもんね。まあたとえとして理解しておいて、実際に走圏をするときには、遠藤老師の言われる要求をひたすら実現すべく身体の声を虚心に聞くというのがよさそうです。イメージしながらだと、何かそれだけでやれちゃった気になりそうですもん。妄想癖あるからなあ、僕。
まあでも前々から、熊形走圏はプーさんがはちみつの壺を抱えてるような感じで、とかボケてましたが、あながち悪い発想ではなかったのかも。『タオのプーさん』 (amazon, bk1)て名著もありましたし。

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2006.05.04

神と眼差し

黄金週間妄想落ち穂拾いの2。

神といっても、神様、のことではないです。いわゆる精神の神、つまり人間を構成する三大要素、精・気・神の神について少し考えてみます。神様と精神がどっちも神なのは、天人相関の思想によっているからで、自然界においてもっともすぐれて霊妙な存在/構成物である神様(まあ一神教的な神ではないわけで、だから構成物といってもよいかと)の、相応する人体における構成要素がもっともすぐれて霊妙な働きをする精神、なわけです。霊魂との関係はというと、たぶん出自は別の文化ではないかと思うのですが、魂魄、清らかで天に帰る魂と濁っていて地に帰る魄は、それぞれ神と精に対応していて、その間に気がある、という二重のランドスケープになっているのかしらん。ちょっとテキトーすぎますかね。
ともあれ、中国哲学における、近代的自我/意識/「僕」って何?の問題は僕にとってかなり最初からの問題で、そもそも大学院に進んだのはそれをやりたかったからなんですが、何故か道教研究に足を踏み入れ、迷いながらもいくつかアイテムをゲットしてまたクエストに再挑戦といった感があります。ま、実際、そのまま単純に玄学や宋学をやらなくてよかったと思ってます。おそらく道教を学ばなければ、西洋哲学の移し鏡にしか過ぎないような哲学っぽい議論しかできなかったでしょう。

ところで、問題は、ここに意と志を放り込むとどうなるのか。意は意識、志は意志、これが神、つまり精神とは別のものということになっています。近代的自我とかいうやつ(およびそれ以降の「僕ってなあに?」)だと意識がかなり重要なはずだけど、中国の身体地図では存外意というのは重要だけどあくまでサポートのようなもの。精神と霊魂は違うということになるんでしょうかね。とりあえず神は意よりも上位にある、というかレイヤーがどうも違います。
修養法では、「煉精化気」「煉気化神」「煉神還虚」とかいいます。精とは精液とかようするにどろどろとした生命力のエッセンスそのもの、可視的です。これを気に変換し、さらに神に変換し、自分の身体全ての物質/存在としての純度を高めていって、最終的に、道、つまり宇宙と一体となる。これが内丹と呼ばれる道教錬金術の一般的な考え方です。こうなると神というのも目には見えないが、何かしらの物質/存在と見なされていることはまあ間違いないところで、ぶっちゃければ神も気の一様態であるといったところでしょうか。
では意はというと、よく分からない。意念≒意識の使い方が修行において大事なのは確かですが、ではその意そのものが身体地図の中にどう位置づけてあるのか、ちょっと微妙なところです。意は心の作用ですから、心臓の気の働き?いやもっと重要な役目を果たしていますが。。。

まあそのへん、まだ勉強不足なわけですが、気になるのは、じゃあ結局、神って何か?ってことだったりします。はっと思ったのが、これがまた八卦掌の練習に際しての、李老師の説明振りです。単換掌という技を繰り出すときに、意念は常に下半身というか丹田においているが、神は技の出る方向、視線の先に向くんだといったようなお話をされました。食事の席で神とは何ですか、という更なる問いに対して、答えるのは難しいが、例えば、有名な書家の真筆とコピーとを見比べたとき、真筆には神が発せられているのを感じる、そういうものだといったようにお答えになりました。無茶な質問だったので、答えもまたはっきりしないのは仕方ないんですが、僕が注目したのは、技の説明でも書の説明でも、指先でどこかしら方向を示しつつ説明をされていたことです。そう、神、とは眼差し、なのです。では意は違うのかというと意念は何かしらもっと内部感覚的なもの、内を向いていて必ずしも視覚には頼ってない(ありありと見える方がよいことは確かでしょうけど)。神は外部に向かって発せられる視覚を強くともなう感覚と言えるのではないでしょうか。

してみると、神こそが、まさしく「僕」そのもの、近代的自我とか意識とかの根っこにあるもの、と言えるのではないかと思うのです。初源の眼差し。自我はその眼差しが自身をみつけるところからはじまります。ウロボロスの回転が自我/意識/心を生む。がそれは自己の内に囚われた意識。しっぽを離して解き放たれる一条の龍、その眼差しこそが、神、なのでしょうか。。。

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2006.05.02

百錬は一走圏に如かず

タイトルの言葉「百錬不如一走圏」は董海川先師の言葉とされ、百回の練習も一回の走圏に及ばない、走圏を実践することが肝要であるという八卦掌のいわば根本教義みたいなもんです。忘れちゃいけませんと遠藤老師に叱られたのできちんと書いて戒めとします。

さて、その走圏、難しいです。「上鬆下緊大力在腿」ですから、力自体は足に込めなければいかんわけですが、李老師によればしかし意念は丹田におくとの由。え、普通力を込めると意識もそこに行くんでは?あう、難しすぎます。。。と思っていたら、最近遠藤老師が特に腰の充実ということを強調され、ここが走圏の鍵ですと教わりました。N師兄によれば、李老師からはそういったことを教わっていないので、遠藤老師による分析の成果だろうってことでした。いやしかしこれは分かりやすいですよ。意念をどこにおくかがはっきり分かります(が、もちろんその通りできやしない。。。)。
前にも遠藤老師からは、丹田と言われて、身体の部位のどこかを特定できますか?できないでしょう、腰回り全体を丹田だと考えるのですと言われてたので、李老師の意念は丹田にというお話とセットで考えると当面の具体的目標がはっきりしました。つまり、命門付近の腰の充実を意識しつつ、腰からぐりんと足まで力を入れて地面を噛みつつ走圏を行うと。んで、修練が進むにしたがって、「丹田」全体を意識するように広げていけばよい(あるいは自然と広がる、のかな)、ということになるでしょうか。今度遠藤老師に聞いてみよう。そうしよう。

まあできもしないことをあれこれ想像しても、楽しいけど、仕方ないので、結局、目の前に与えられた課題にしたがって走圏をぐーるぐるがんばるしかないわけですが。最近ようやく「上鬆下緊」の感覚が分かるようになりました。えー、できてません。が、あっ、上に力入ってると気づくようになって、一瞬は力を抜いて下げれるようになったように思います。半歩進むと元の木阿弥なんですが。げしょげしょ。

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2006.04.22

民国初中期の八卦掌拳譜

道文研例会での発表予定。ただいま準備中。いつもながらいきおいだけなのが心苦しいのですが。実践面での蓄積はまだまだなので、とりあえず文献面のアプローチからいってみます。基本は大切さあ。

で、ホントにいきおいだけの発表になってしまい、反省。まずレジュメの作り方からダメだしをされました。突貫工事で作ったのでいたらなかったという問題ではなく、聴き手のことを考えるレジュメ作りが身体化されてないから、追い込まれて馬脚が出るのだということなんですよね。だからもっと早くから準備しようという反省はしないのだあ(その反省は過去「何度」もしていてあまり成果が見られないため)。そのかわり切羽詰まってるときでも常に聴き手目線でレジュメを構成できるように心がける方向で反省しております。

それはともかく、発表の構成は以下の通り。


1.はじめに
+八卦掌:いわゆる内家拳の一つ。
 cf.太極・形意・八卦の三家。
+中国武術:現代日本社会に影響のある「道教」的なものの一つ。
 cf.風水・易占・気功・太極拳
+思想研究でも可能な参与観察として。
 cf.内丹・気功・房中術
+現地調査のハードルが高め
 →「やって」みないと分からない。習得に時間がかかる。
+日本での実践が容易。
+党派争いから如何に距離を置くか。
 
2.八卦掌の概要
(1)八卦掌簡史
+董海川(約1813-1882)を開祖とする。
+道士に習ったという伝説
 *「陰陽八盤掌」を元に河図・洛書の易理によって理論化した。
 *「転天尊」という功法をもとに編み出した。
  →『七真言行伝』に丘處機によって「洞窟の中を止まらずぐるぐる回る」修練法として言及。(張方2004) ※未詳

→資料:松田1976・『八卦拳真伝』・『拳意述真』

(2)八卦掌の拳譜
+民国初中期の拳譜
+孫福全『八卦拳学』 1916年序
+孫福全『拳意述真』 1923年序
+黄柏年『龍形八卦掌』 1928年序
+徐哲東『国技論略』 1929年序
+金恩忠『国術名人録』 1933年序
+孫錫堃『八卦拳真伝』 1934年序
+盧景貴『曹氏八卦拳全譜』 1942年序 ※序によれば馬貴→曹鐘昇。ただし伝記落丁。
……
→資料:張全亮2005

+拳譜の再刊
秘書集成:技撃類 団結出版(中国) ※影印
古拳譜叢書 山西科学技術出版社(中国) ※影印
武備叢書 逸文出版(台湾) ※活字・注釈付

(3)八卦掌研究
日本:
+MAGAZINEPLUSで1件のみヒット。ただし魯迅研究。
 cf.渡辺宏明「魯迅と八卦掌」、法政大学教養部紀要103、1998年
+太極拳では103件がヒットするが、一般誌か保健体育学方面。思想史的考察はわずか。
+上記に含まれていないものとしては、「うーしゅう」(現在停刊)など中国武術専門誌の記事があるが、こちらは調査中。
+参考文献にあげた概説書や通史研究は存在するが、八卦掌の扱いは高くはない。
+太極拳に関しては、三浦2000において文献学的アプローチによりその伝統思想との関係が論じられている。
中国:
+CNKIで292件ヒット。ただし専論に限定されない。大半が武術専門誌に掲載されたもの。思想史的考察はやはり少ないが、。
+太極拳では4,051件ヒットと、圧倒的に差がある。
+概説書としてだが、郝勤1997において道教との関係が論じられている。
台湾:
+期刊文献検索で16件ヒット。八卦掌の歴史や思想等を論ずるものもあるようだが、ほとんど武術専門誌。
 
3.八卦掌の特徴
(1)各拳譜の構成比較
+『龍形八卦掌』
+『八卦拳真伝』
+『曹氏八卦拳全譜』

→資料:『龍形八卦掌』・『八卦拳真伝』・『曹氏八卦拳全譜』

(2)太極・形意・八卦の相互比較

→資料:『拳意述真』・『国技論略』
 
4.八卦掌と内丹
+拳譜にみる内丹の位置付け
+武術の基礎
+内丹を内功、武術を外功として内外双修を謳う。

→資料:『八卦拳真伝』・『拳意述真』
 
5.おわりに
今後の展望
+参与観察の成果報告
+拳譜の比較による掌法の構成を分析
+同時期の日中の状況とあわせて検討→心霊学・気功
 cf.合気道:植芝盛平(1883-1969)、調和道:藤田霊斎(1868-1957)

→資料:笠尾1994・『国術名人録』

+現代のスピリチュアリズム(とその研究)への接続

付:馬貴派八卦掌における考え方
+走圏の修練は内丹の錬功(周天法)と同じ
+八卦の理論は後付け
 
参考文献
松田隆智、『図説中国武術史』、新人物往来社、1976年
笠尾恭二『中国武術史大観』、福昌堂、1994年
郝勤『道教與武術』、文津出版社、1997年
林伯原、『近代中国における武術の発展』、不昧堂出版、1999年
三浦國雄、「太極拳と中国思想―『陳氏太極拳図説』を読む」、石田秀美編『東アジアの身体技法』、勉誠出版、2000年
張方「八卦掌源流考」、精武2004年9期、2004年
張全亮、『八卦掌答疑 関於「八卦掌」の百科全書』、新潮社(台北)、2005年


今回も多分に見切り発車で、アカデミックな研究として構成できるかという方法論のレベルですでになやましいという困った状況で、助けを請うような意味合いのもので、あたって砕けた感はありますが、得たものは大きかったです。感謝感謝。

以下は、内容に関してのいただいた示唆を順不同でメモ。

『七真言行伝』は章回小説の『七真伝』の可能性がある。

 →清朝のもので新しく、相当流布した。一般の七真イメージの形成はここから。
 →現在でもこれを読んで入道を決意した人がいたりする。
 →現在でもこれを使って信徒に説法を行ったりもする。

『易筋経』は現在でも道観で実践されている。
「国術」「国技」という言い方は当時のナショナリズムの反映では。

 →京劇も「国劇」と言い直したりしたのもこの時代。

『八卦拳真伝』の道功は通俗内丹では。

 →先天道と術語がかぶっている印象。白蓮教周辺の語り口とまず比較
 →趙避塵については東大の横手せんせいが専論を最近書かれたけど、公刊はまだ

全真教にしろ、白蓮教にしろ、一般的なイメージと異なって実態は様々なので個別具体的な検証が必要。

 →他称されているが実際は違うとか、自称しているが実際は違うとか。

義和団関係の研究資料を抑えるべき。

 →佐藤公彦『義和団の起源とその運動』、研文出版、1999年
 →山東大学歴史系中国近代史教研室編『山東義和団調査資料選編』、斉魯書社、1980年

宝巻の世界観重要。

三浦せんせいのスタイルを参考にしつつとなると、文献学的なアプローチでは『八卦拳真伝』に限定して議論を進めた方が論としてはまとめやすそうです。横手論文に超期待という他力本願の方向で(でも跡地にぺんぺん草ひとつないすげえ論文になってそうなのがコワイ)。実際、拳譜間の比較はそもそも僕自身が一通り基礎的な掌法を習わないかぎりはおぼつかないし、そうなるとあとまあ2,3年はかかります。のんびり論文書いてらんないので、できるところからやらないと。。。
また、(業界的な文脈で)発展的な主題の選び方かつ自分の興味に合致する方向でとなると、やはり催眠術や心霊学と絡めて論じていくのが楽しそうです。「身体論」みたいな方向になるんでしょうか。それってマジックワードじゃない?との指摘は懇親会でもされましたが、僕自身もかつてはそのように考え、「身体」とか「心身」とかで論を立てることを忌避してたのですが、そこはそれ、最近は分かりやすさ重要=目指せ科研費獲得(爆という戦略性も大切かと思い直しているところです。。。そうか、ここで「臨床」だ!
当面はいろいろ示唆いただいた課題をできる範囲でクリアしつつこの二方面で研究をすすめていこうかと思った次第。このあたりは八卦掌の大師兄にすげえ詳しい人がいるので、教わることが多くなりそう。わくわく。
大論文は無理でも、ジャブを重ねていくつもりです、はい。

追記(5/21):横手せんせいの論文って、前に出ている「劉名瑞と趙避塵--近代北京の内丹家について」(東洋史研究61(1)、2002年)と違うのかなあ。とりあえずここからチェックかしらん。

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2006.03.21

八卦掌歌訣

〜書きかけ〜

李老師の講習会で教えてもらった歌訣のメモ。武術一般についてのものも含みます。

含胸亀背下端腰。上鬆下緊大力在腿。
胸を身体で包み、亀のように背を丸め、腰を下にまっすぐのばす。上半身はリラックスさせ、下半身は緊張させ、足に強く力を込める。

走圏の枢要はここにつきるそうです。言葉は簡単、しかしまったく実践できてません。うひー。

手到脚到腰腿到。心真神真力又真。三真四到合一処。防己有余能制人。
手が到達し足が到達し腰と腿が到達する。心が真実で神が真実で力も真実となる。三つの真実と四つの到達が一つに集まれば、自身を守ってその上で他者を制することができる。

身体が正しく動き、そこに精神が伴えば真の力が発揮されるそうです。理想ははるか遠く。

意到気到、気到血到、血到力到。
意が到れば気が到り、気が到れば血が到り、血が到れば力が到る。

意念の重要性。走圏では力は足に込めるが意念は丹田におくとの由。できません。ぐすん。

招不到術、術不到法、法不到功、功不到道。
一打は技に及ばない。技は掌法に及ばない。掌法は功夫に及ばない。功夫は道に及ばない。

最後は道の体得にある、とするといかにも精神的なお題目のようにも聞こえますが、身体と精神が相補的なものとして修行体系がデザインされているので、これは実効ある考えなのですね。

以下は応用編。

長江大海、波涛洶涌。
長江や大海は、打ち返す波がとどまることがない。
単刀看手、双刀看走。
一本の刀を扱うこつはもう一方の手に、二本の刀を扱うこつは歩法にある。

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2006.03.03

老子3章と八卦掌

~書きかけ~

さて、講習会での老子トークの続き続きです。41章の一節を引かれた後に、李老師は以下の言葉を続けられていました。

不尚賢,使民不爭。不貴難得之貨,使民不為盜。不見可欲,使民心不亂。是以聖人之治,虛其心,實其腹,弱其志,強其骨;常使民無知、無欲,使夫智者不敢為也。為無為,則無不治。 (第3章)

其の心を虛しくし、其の腹を實たす[1]。其の志を弱くし、其の骨を強くす[2]

[1]
(1)「心者規也。中有吉凶善惡。腹者道嚢。氣常欲實。心爲凶惡。道去嚢空。空者耶入。便{急攴}人。虚去心中凶惡。道來歸之。腹則實矣。」
(2)「心懐智而腹懐食、虚有智而實無知也。」

[2]
(1)「志心に隨ひて善惡有り。骨腹に隨ひて氣を仰ぐ。志を彊ひて惡を爲さば、氣去り骨枯る。其の惡志を弱めれば、氣歸り髓滿つ。」(志隨心有善惡。骨隨腹仰氣。彊志爲惡。氣去骨枯。弱其惡志。氣歸髓滿。)
(2)「骨知る無くして以て幹たり、志事を生みて以て亂たり。」(骨無知以幹、志生事以亂。)

心や情念を静め腹に気をため骨に髄を満たすことが聖人の治、つまり道であるということですが、これはほとんど走圏で要求されている内容に等しいわけで、八卦掌で行うべき道、それは走圏だということなのでしょう。老子原文では政治の例えとして使われていますが、例えに使われるということは、身体観として当時すでに定着していたものだったのでしょう。
もちろん、上半身を虚に下半身を実に、という考え方は八卦掌に限らない伝統的な身体観にもとづくものです。李老師自身、どんな運動でも走圏で求められているものと同じ要求をもつものではあれば、それは良い運動であると言われてました。もちろん、そんな運動、そうはないわけですが。

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2006.03.01

老子41章と八卦掌

~書きかけ~

さて、講習会での老子トークの続きです。最終日、ちょっと遅れて行ったので、お話そのものは伺ってないのですが、黒板には次の言葉が書かれていました。

上士聞道,勤而行之;中士聞道,若存若亡;下士聞道,大笑之,不笑不足以為道。故建言有之:明道若昧,進道若退,夷道若纇,上德若谷,大白若辱,廣德若不足,建德若偷,質真若渝,大方無隅,大器晚成,大音希聲,大象無形。道隱無名,夫唯道善貸且成。 (第41章)


上士道を聞くに、勤めて之を行ふ。中士道を聞くに、存するが若く亡するが若くす。下士道を聞くに、大いに之を笑ふ。笑はざれば以て道と為すに足らず。

李老師は「若信若疑」とされていましたが、意味は同じですね。特に補注するまでもなく、意味は明晰。八卦掌を学ぶ者、上士たれ、ということでしょう。講習会の後で、李老師に、「走圏をしていると身体のここが痛むんですが」「手の形はこれでいいんでしょうか」などなど初学者何人かで質問させていただいたりしてたのですが、個々別々にお答えいただいた後で、「いろいろそういう疑問を持つのは分かる、私もそうだったから。でもひたすら練習あるのみだよ」とのお話が。走圏を続けて練功が積まれていけば、分かるようになるので決して焦ってはいけないと諭されたのでした。まさに「大器は晩成す」ということですか。
また遠藤老師からは別の日に、走圏をするときには、「含胸亀背下端腰……」といった具体的な要求を満たすことだけに専心し、他の武術ではこうだからこう動かしてみようとか、身体感覚で何か感じたものがあったからそれをさらに求めるとか、そうしたことをしてはいけないとのお話がありました。走圏を行っている最中も上士たれ、ということです。

うう、すいません中士で。。。走圏の最中もついつい「あうあう、痛いよつかれたよ」とか心の中で叫んでますし、八卦掌を学ぶということ自体をやはり距離を置いて見ている自分がいます。前者は僕が単にへたれ、後者は研究者としての性ってやつでしょうか。いたっておりません。せめてへたれな自分は何とかしたいもんです。

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2006.02.28

老子21章と八卦掌

~書きかけ~

2006年1月~2月の李老師の講習会で、中国哲学の研究をしていますと一応控え目に言ったところ、李老師から読んで価値ある古典として示されたのが『老子』と『易筋経』でした。前者は思想的な価値、後者は実践的な価値を認められていました。どちらも八卦掌の立場から注釈を書かれている最中だそうで、先に易筋経の方から仕上げて出版を考えておられるとか。おおう、一日千秋で待つしかありますまい。実際、八卦掌だけでなく、一般に中国武術ではこの二書の影響は大きく、道仏混淆の一例としても興味深いものなのです。
そんな事情とは関係なく、講習会の中で李老師は何度か『老子』の言葉を引用されましたので、それを以下紹介します(李先生による引用は下線部のみ)。

下線部の箇所については、補注として、(A)後漢の五斗米道によって作られたとされる『想爾注』、(B)六朝期の夭折の天才王弼の注釈、の二つを挙げました。本文にも異同がないではない(特に『想爾注』)ですが、まあそこは普通のやつを。なお、道氣社の電子版工具書を参考にしました。

なお以下の文章は僕の個人的な解釈が多分に含まれており、李老師の言葉を正確に反映している訳ではありません。当たり前のことですが、ここにお断りしておきます。

孔德之容,惟道是從。道之為物,惟恍惟惚。惚兮恍兮,其中有象。恍兮惚兮,其中有物。窈兮冥兮,其中有精。其精甚真,其中有信。自古及今,其名不去,以閱眾甫。吾何以知眾甫之狀哉?以此。 (第21章)


恍たり惚たり、其の中物有り[1]。窈たり冥たり、其の中精有り[2]。其の精甚だ真にして、其の中信有り[3]。

[1]
(B)「無形始物を以て、成物に繋げず。萬物以て始まり以て成るに、其の然る所以を知らず。」(以無形始物、不繋成物。萬物以始以成、而不知其所以然。)

[2]
(A)「大除中也。有道精分之與萬物。萬物精共一本。其精甚眞。生死之官也。精其眞。當寶之也。」
(B)「窈冥、深遠之歎。深遠不可得而見、然而萬物由之。其可得見以定其真。」

[3]
(A)「古仙士寶精以生。今人失精以死。大信也。」
(B)「信、信驗也。物反窈冥、則真精之極得、萬物之性定。」

この一句は、講習会終了後、食事をしながらいろいろと質問させていただいていたときに、李老師が引かれたものです。正直、この句を何故引かれたのか分からず、さらに尋ねると、一通り字句の説明をされた後、言葉に出来るような道は本当の道ではないと言うよね、と老子第一章「道可道、非常道」を引かれました。
おそらく李老師の真意は、八卦掌の最終的な目的におかれる「道」というものは、本来言語化できないものだからあれこれ聞いたり考えたりするより、ともかく練習しなさいと。練功が本物になれば「信」じられるようになるからね、ということだったのではないでしょうか。

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2006.01.29

後ろへ向かう力

午前一仕事した後、午後は八卦掌の講習会に行きました。来日中の李先生の特別講習会です。今日は変化の技を練習するけれど、それは根本となる一から生ずるものだから、根本を練習しなくてはいけないのはもちろんだけども、たくさんある変化を一つ一つ学んでいくことで、根本もまた理解できるとのこと。これは中国哲学の考え方ですとの由。「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」(『老子』42章)という宇宙観をベースに、道教の養生思想では、その逆をたどって道に回帰することを根幹の発想としています。八卦掌の修練もまた同じということですね。

まず龍形走圏、これが根本の一であります、を練習。あんまりやると疲れてよくないので毎日少しの練習にしましょう、と言われたのが始めてから30分後でした。あう。八卦掌が重視するのは気血の充実なので、練習するときには形が正しいかどうかよりも気血を充実させることに意識を向けるようにとのこと。

次に龍形走圏からの変化として、単換掌を練習。単換掌のポイントは方方正正で行うとのことでした。具体的には扣歩において足を直角に配し、また手の動きは円になっているという次第。形の正しさが気血の充実を補うのだから、形があんまりいい加減でもいけないとのこと。
先の話と矛盾するようですが、ようは意識せずとも正しい形になるように練習していかないと気血の充実はおぼつかない、ということなんでしょう。道は遠いのう。

そして単換掌からの変化として、今日は「帯手」を習いました。ついこないだ遠藤先生から習い始めた探掌などの技が前へ向かう力だとすれば、帯掌は後ろに向かう力だそうです。帯手自体は技法ですが、そこに潜む「後ろへ向かう力」という原理を学ぶことが重要だとのこと。
続いて、連環帯手、退歩帯手、進退歩帯手と変化の形を習っていきました。実践面での使い方は相手をつかんで引っ張り回すといったところです。でも李先生にやられたらつかまれた瞬間にそこを骨折しそう。。。

で、まあ、くるくる回ってたんですが、その時にも「含胸亀背下端腰」を維持し、中正を保ってないといけません。できねー。中正を保っていないと、そこからさらに別の動きに変化できないからとのこと。目を回してそれどころではありませんでしたが。やはり走圏をきちんとして身体を作りましょう、ということをたっぷり実感したのでした。でも変化の技を習うのは楽しいです。走圏が楽しくなるのはいつの日か。。。

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2005.12.20

端腰は養腎

年末最後の練習で、終わった後案の定飲み会があったんですが、所用があって参加できませんでした。残念だあ。

ここしばらく腰の充実について、話があったり、走圏の型を直されたりしています。気血を養うには腎を養う必要があり、端腰はまさに腎を養っているのだとのこと。走圏の際に地面をかんで歩く抓地を行うと、筋がつくられるだけでなく、土踏まずのところにある湧泉穴が刺激されて、左右に抓地するごとに気脈が通じている左右の腎臓が充実するんだそうです。瞑想(意念)だけで気脈を通すのはたいへん難しいが、八卦掌では走圏という身体を動かす行為によってこれを成し遂げると。なるほど。気脈の貫通は身体感覚として実感される以上は、身体側からのアプローチもできて然るべきで、邪念の多い現代人には(僕だけ?てことはないでしょう)、こうした身体的実践の方が向いているというのは納得です。

で、邪念ついでに以下は妄想。
腰の充実とともに大切なのが、含胸亀背、胸の弛緩なわけで、腰が腎を養うのであれば、胸はやはり心臓ということになるのでしょうか。ここは老師に要確認ですが、妄想なのでそのまま続けてと。すると、心と腎となればこれはまた内丹の文脈になります。走圏は上半身の気を下へ降ろし上を虚に下を実にすることが目的の一つですが、心は陽、腎は陰、つまり、心の陽中陰を、腎の陰中陽と入れ替えるという内丹の実践の一過程として読み解くことができそうです。陰=肉化した気、陽=清虚な気、という補助線を入れれば悪くない解釈ではないかと。

じゃあその後の丹の完成はどう読み解くべきか気になりますが、そういうことを考えれる段階まで到達するのにはまだまだ時間がかかりそうです。

ちなみに一般的な筋肉に頼った力は「後天」の力、筋による力は「先天」の力というそうです。やっぱり内丹って、この手の思想の基礎体力になってます。

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